姉小路 祐 風水京都・竹の殺人 目 次  第一部 一尺四方の庭  第二部 たたりの光景  第三部 花の殺意  第四部 竹の訴え——解決編   あとがき——風水都市としての京都—— 風水探偵 桜子 風水京都・竹の殺人  第一部 一尺四方の庭   1 すぐれた一枝は、万枝にまさる  竹は日本を代表する植物の一つであるが、その日本にあって京都の竹が最も色合いが美しいと言われる。土壌や気候が微妙に影響するのだろうか、京都の竹を他の地方に持っていって育てても、同じ色は出ないそうである。  エジソンが白熱電灯の実験に使用した竹は、京都南部の八幡《やわた》の竹であるが、あるいはエジソンは電気を通す特性のほかにその美しさに魅《ひ》かれて、使ってみることにしたのかもしれない。 「どうですか。竹林の真ん中に立ってみると、竹の雄々しさを感じますでしょう」 「ええ、なんや、ぐっと圧倒されそうです」  桂道頼《かつらみちより》に案内されて、庭師の松原桜子《まつばらさくらこ》は透き通るような緑が萌《も》える竹林を見回した。天に向かって伸びようとする竹の群れは、力強い生命力と息吹きを感じさせる。 「根は網の目のようにしっかりと張っています。ですから、地震のときは竹藪《たけやぶ》に逃げ込めと昔から言い伝えられているんですよ」  桂道頼は、竹の枝を使った生け花で有名な桂山流《けいざんりゆう》の第十七代目の宗主である。まだ三十一歳と若いが、長身を和服に包んだその姿には、全国に四十万人の門弟を有する家元の風格が漂っている。きちんと七三に分けた頭にメタルフレームの眼鏡がよく似合っていて、どこかの大学の助教授のようなインテリジェンスがある。 「不思議ですね。竹細工のような作品を見ていると竹はとてもしなやかで繊細な印象を受けますけど」  庭師の松原桜子は、長靴をはき、作業着姿の上から、背中に�松�と染め抜かれたハッピを着込んでいる。けれども、頭に巻いたスカーフは鮮やかなピンクだ。ピンクは彼女にとって、ラッキーカラーであり、トレードカラーでもある。ウェストポーチも、軍手も、ピンクを使っている。 「竹は両面性を持っています。とても頑丈なのに、こんなに曲がります」  道頼は手近にある若竹の一本をぐいと手前に引いた。若竹は地面につかんばかりに曲がるが、けっして折れることはない。道頼が手を離すと、勢いよく元に戻る。 「タケノコの時期は軟らかく食べることができるのに、成長すると槍《やり》に使えるくらいに硬くなります。本当に、竹は不思議な植物です。地上に顔を出してから約三カ月で成竹して、それ以降は高さも太さも変わりません。日本最古の小説が、『竹取物語』というのも、それだけ竹の神秘性が昔から人々に浸透していたからではないでしょうか」  道頼は、腕を組んで自分が所有する竹林を見上げた。 「生け花に使う竹は、この竹林から取ってきはるのですね」 「ええ、それも朝取りです。朝一番に竹林に足を踏み入れると、竹のほうから『けさは自分を切って使ってほしい』という声が聞こえてくるんですよ」 「それはすごいですね」  庭師も大ベテランになると、木々と会話ができるという話はよく聞く。剪定《せんてい》してほしいとか根に水をかけてほしいといった声が自然に耳に届くというのだが、庭師になってまだ二年にしかならない二十九歳の桜子は、とてもそんな境地にはほど遠い。 「私もそうなったのは、ここ最近のことですよ。悟りというか、天命というか……こんな言い方はちょっと古いですよね」  道頼は複雑な笑いをかすかにたたえた。 「これだけたくさん生えていると、いいですね」  桜子は、サッカーの公式グランドと変わらないほどの広さを持つ竹林を見回した。桜子は、やはり庭師である父親の徳《とく》右衛門《えもん》から�竹には竹�という言葉を教わった。竹の肥料には、竹の葉が最適なのだ。だから、庭で竹を育てようとすれば、竹の葉をもらってきて根元にまく。竹林ではそれが自然にできるから、どんどん竹は群生する。  庭師からすると、竹はやっかいなこともある。竹は松や梅と並んでめでたい植物とされるだけに、三本、五本、七本といった奇数で植える。  ところが、生命力の強い竹は、二、三年もすると六本とか十本とかいった具合に増えていくことがある。それをさせないためには、地下茎をコンクリートでブロックしなければならない。それも、深さ八十センチほどのものが必要になってくる。それでも、ときにはそのブロックを突き破られることがある。  その点、こんなふうな広い竹林だと、竹のほうも伸び伸びできる。 「ここの竹は、みんなマダケです。竹の中でも、マダケが最も美しい。とくに京都のマダケはいいです」 「それは、わかります」  この広い竹林に隣接して、桂家の私庭園である�洛西桂園《らくさいけいえん》�が造られ、そして桂家の住まいがある。�洛西桂園�は二百年の歴史を持つが、桜子の父親である松原徳右衛門は、その庭園の増設を手がけた。そして、このたび、この道頼から改修を頼まれることになった。徳右衛門は病に倒れて以降、まだ体が不自由なので桜子が松原造園を代表して、ここに足を運ぶことになった。 「ちょっと待ってください」  桜子は磁石を取り出して方角を確認し、地図に照らし合わせた。それから、風水盤を取り出す。 「ほう、風水をなさるのですか」 「ええ。急に父の仕事を継ぐことになって、あわてて庭師の勉強を始めたのですが、技術では前からやってはるかたたちにかないっこありません。それで、あたしなりの特徴を出そうと、大学の建築学科へ聴講に行って、そこで風水に出会ったのです」  風水を研究すればするほど、奥の深さに魅せられる。そんな風水を活かすというのが、桜子の庭師としてのセールスポイントの一つとなっている。 「では、庭園のほうをご案内しましょうか」 「はい、お願いします」  道頼は踵《きびす》を返した。彼にとっては歩き慣れた竹林だが、桜子は一人だと迷子になりそうだ。  竹林を出たところに、土塀が造られている。この土塀に囲まれて、�洛西桂園�が造られている。 「桜子さんは、桂離宮に行かれたことはありますか」 「ええ、二度ばかり」  宮内庁が所管する桂離宮は一般に公開されているが、それには事前の申し込みが必要だ。 「この洛西桂園は、恐れ多くも、桂離宮を真似ています。名前も、たまたま桂姓なもので桂園としています」  そういった話は、もちろん父から聞いている。この庭園は、毎年春分の日と秋分の日は一般に無料公開もされ、長い列ができるそうである。 「ここに来る前に、洛西桂園の位置を確認して驚きました」  千二百年の歴史を刻む古都である京都は、風水を意識して造営された。  そんな京都では、北東から南西を結ぶ鬼門軸《きもんじく》に重い意味がある。比叡山《ひえいざん》、京都御所、二条城、桂離宮はこの鬼門軸上に一直線に並ぶ。 「この洛西桂園も、京都の鬼門軸線上に位置するのですね」 「ええ、そうです。京都御所を挟んで曼殊院《まんしゆいん》とほぼ同じ距離になります」  左京区にある紅葉の名所である曼殊院もまた、鬼門軸線に並ぶ。 「曼殊院の庭園は、桂離宮のミニチュアだと言われていますよね」  桂離宮を造営した八条宮智仁《はちじようのみやとしひと》親王の次男である良尚法親王《りようしようほつしんのう》が、現在の地に曼殊院を築いた。 「よく御存知ですね。さすがに庭師さんだ」 「いいえ。まだまだ勉強中の身です」 「では、中へどうぞ」 「はい」  桜子が洛西桂園に足を踏み入れるのは初めてのことだ。  洛西桂園は、回遊式庭園と呼ばれる形式を採っている。一つ一つの建物を変化に富んだ道によって繋《つな》ぎ、道を歩くことによって庭を一周することができる。  竹林に隣接した門をくぐると、そこからくの字型に曲がった砂利道が続く。道が曲がっているのは、庭園をすぐには見せないことで期待感を高める効果を持つ。  道を曲がると、池が姿を見せる。近くを流れる善峰寺川《よしみねでらがわ》から引いた水をたたえるかなりの広さの池だ。池には小舟が浮かんでいる。  池は変形の星型をしていて、この桂園に潤いと変化を持たせている。池に架かる石の橋を渡ると、そこには書院が造られている。  書院は、周囲を青竹に囲まれている。隣の竹林ほどではないが、この庭園も随所で竹がアクセントとなっている。  その青竹の間から、いきなり白髪の老婆が現われた。老婆は着物姿で、仙人のような杖《つえ》を手にしている。 「どちらさんじゃな」  皺《しわ》の深い顔だ。頭髪だけでなく、眉《まゆ》も白い。その眉の下の目は、年齢の割にはぎょろりと大きく、鋭さを含んでいる。そして唇はネジ曲がっている。もともと小柄なうえに腰が曲がっているので、道頼の胸くらいまでしか上背がない。 「庭師さんです」 「ほう……こんな愛くるしいお嬢さんがのう」  老婆は上目づかいに桜子を見た。 「初めまして。松原徳右衛門の娘の桜子です」 「徳右衛門さん? さあ、知らんのう」  老婆はそう言っただけで、いきなり背を向けて歩き出した。  桜子は、先ほど道頼が言っていた�曼殊院�に置かれてある幽霊の掛け軸を思い出した。曼殊院を訪れた観光客の中には、庭園よりも幽霊の掛け軸のほうが印象深かったという者も少なくない。廊下の途中にあるので、多くの者がびっくりして足を止める。その幽霊の掛け軸は、あまりにも不幸が続いた農夫が供養のために曼殊院に納めたものだと言われている。幽霊は無気味な表情で、今にも掛け軸から抜け出してくるようなリアルさを持っている。物珍しさからこの掛け軸をカメラに収めた観光客のうちの何パーセントかは、その写真を持っている気味悪さからネガごと曼殊院に送ってくるという話を桜子は聞いたことがある。  今の老婆の姿は、その幽霊を連想させた。 「先代の宗主……われわれは、大宗主と呼んでいますが、その奥さんになる女性です。名前は、桂みね子です」 「先代の宗主というのは、桂|英太郎《えいたろう》さんですね」  道頼は少しまわりくどい言い方をしたので、桜子は確認をした。先代の宗主というのは、この道頼の父親である桂英太郎のはずだ。 「ええ、そうです」  京都人の多くは、桂英太郎の名前を知っている。一昨年亡くなったが、単に華道界の大御所というだけでなく、さまざまな審議会のメンバーに名を連ね、京都の文化人代表として、マスコミにもしばしば登場していた。けれども、その妻のことはほとんど知られていない。 「じゃ、今のかたは、あなたのお母さんということになるのですね」  この道頼は、英太郎の息子だ。その英太郎の妻ということは、道頼の母ということになる。母子にしては、少し年齢が離れすぎているが。 「いえ、そうじゃないんです。まあ、ちょっと複雑なことになっていまして」  道頼は、言葉を濁して、そのまま黙った。桜子はまずいことを訊《き》いてしまったなと思った。  書院に目を移すと、違棚《ちがいだな》の上に生けられた花が見えた。花は、キンセンカとキンギョソウだ。その二つの花を、三本の竹枝が囲んでいる。こうした竹を使ったやりかたが桂山流の独創的なところだ。花器は土色をそのまま生かした素焼きのもので、竹の青さを引き立てるのに一役買っている。  桜子の視線に気づいてか、道頼は解説をしてくれた。 「朝に生けた花は、まずこうして書院に飾ります。それを毎日続けることが、現宗主である私の務めになります。ここは先祖が祀《まつ》られている場所でもありますから」  道頼は草履を脱いで、書院に上がるように桜子に勧めた。桜子はしゃがんで長靴を脱ぐ。庭師をやって約二年、ようやくこんな動作にも慣れてきた。 「大宗主は、『すぐれた一枝は、万枝にまさる』という言葉が好きでした。たった一本の竹の枝を剣山に刺して、展覧会に出品したこともありました。でも、私はまだこのように、季節の花を使って、それに竹をからめる形しかできません。しかも花と竹を合わせて、五本や七本といった数にしないと、いい表現ができません。まだまだ未熟です」  道頼は、違棚の上の花をちょっと手で直す。先代の桂英太郎の名前が大きかっただけに、それを受け継ぐことになった道頼としてはプレッシャーも相当なものだろう。 「うちらは、庭という広いスペースで勝負できますけれど、生け花はあの花器の中だけでの表現ですから、たいへんやと思います」 「そうですね。確かに、スペース的には、一尺四方もないくらいの世界です。けれども、少し素材を変えただけでがらりと雰囲気が変わり、同じ素材でも生ける位置を少し動かしただけで、ほとんど別の印象のものになってしまいます。華道ほど奥深いものも、ちょっとないでしょう」  道頼は、違棚の横の襖《ふすま》を開けた。その次の間は、六畳ほどのスペースのがらんどうな部屋だ。そこには小さな床の間が設けられてあり、そこに半紙サイズの人物集合写真が立てかけられている。きれいに印画されたもので、写真館で撮ったと思われる。全部で十四人が写っている。 「桂家の現在のメンバーを、この写真を使って紹介しましょう。これは、私が第十七代の宗主を襲名したときに、記念撮影したものです」  まるで公家のように衣冠束帯をした道頼が中央に座っている。これが、正装なのだろう。その隣に、幼児を膝《ひざ》に抱えた着物姿の若い女性が寄り添っている。 「妻の千代《ちよ》、そして息子の翼《つばさ》です。今年で翼は六歳になりました。千代は二十八歳です」  道頼の後ろに、ショートヘアの女性が誇らしげに立っている。五十年配であるが、顔立ちは整っている。 「このかたは?」 「私の母の富士乃《ふじの》です」  この女性が、道頼の母親なのだ。  先ほどの仙人のような老婆——桂みね子は、写真の一番右端に写っている。 「さっき言いましたように、父の英太郎の正妻は、このみね子さんです。私の母である富士乃は、正式の妻ではありません。昔流に言えば側室、現代風に表現すれば愛人ということになります。父とみね子さんとの間には、結局子供ができなかったのです」 「そうだったんですか」  道頼は、愛人の子ということになる。しかし、正妻との間に子供がいなかったために、宗主の座を継ぐことになったわけだ。 「桂家の人間関係は複雑なんです。私が生まれる前のことなのですが、みね子さんとの間に、なかなか子供が産まれなかったので、父は養子をもらうことにしました。それが、この八橋雅空《やはしまさくう》さんです」  みね子の前に、濃紺の着物に細身の体を包んだ品の良さそうな紳士が座っている。能楽師のような風貌《ふうぼう》だ。 「八橋雅空さんの名前は、うちの父から聞いています。この洛西桂園を増設したのは、八橋さんの発案だったとか」 「ええ、そうです」  八橋雅空と道頼の間には、二組の夫婦らしい男女がいる。 「この顎髯《あごひげ》の男性が、父の甥《おい》である政之《まさゆき》で、その隣が妻の喜子《よしこ》さんです。それからこっちの女性が、政之の姉……つまり父の姪《めい》にあたる弓恵《ゆみえ》です。その横の体格のいい男性が、弓恵の夫のタケルさんです。ヤマトタケルから名前をとったということですが、まさにそんな外見でしょう」  確かに体格だけでなく、太い眉《まゆ》、濃い揉《も》み上げ、大きな目、浅黒い肌と、まるで精悍《せいかん》で勇ましい古代人のようだ。小柄な体格の政之が、目も鼻も小さく、まるで易者のような細長い顎髯をたくわえているのと対照的だ。政之の姉の夫がタケルということだから、この二人の男は血は繋《つな》がっていない。 「タケルさんは富山の薬種商の次男坊なんですが、婿入りして桂姓になりました。それから、タケルと弓恵さんの間にいる女の子が、娘の奈津美《なつみ》で、現在十歳です」  政之の後ろには、頭の禿《は》げ上がった初老の男が立っている。 「そしてこの人が、政之と弓恵の父親……すなわち父の実弟である悟二朗《ごじろう》です」  道頼は自分の父——すなわち桂英太郎の血を引いている者には「さん」を付けない。父から見て、弟の悟二朗、甥の政之、姪の弓恵、甥の娘である奈津美の四人だ。それに対して、その配偶者やみね子、さらに八橋雅空に対しては「さん」付けで呼ぶ。 「かつては雅空さんが父の養子になっていたのですが、そのあと甥の政之が新たに養子となりました。父は、自分の血を引いた者のほうが桂山流の後継者にふさわしいと考えたようです」 「けど、その政之さんも後継者にはならなかったのですね」 「ええ、私が生まれましたから……私の一族はこれだけです。あと縁者ではないのですが、この二人が一緒に写真に写っています」  道頼の妻・千代の横に、少し遠慮がちに離れて五十年配の男が、さらにその横に三十代の美しい女性が立っている。 「男性のほうは、師範総長……つまり全国の師範を統括する立場にいる下市規久男《しもいちきくお》です。それから女性のほうは、内弟子の久保井杏奈《くぼいあんな》です。彼女は留学経験もあって英語とフランス語が堪能なので、外国からの来客があったときなどに活躍してくれています」  これで写真に写った十四人の人物紹介が終わった。愛人の子が宗主となり、養子がいて、前宗主の弟一家が六人を占めるなど、かなり人間関係は複雑そうだ。 「あの、ここに写っている位牌《いはい》は英太郎さんのものですか」  写真中央に座る道頼の前に、大小二つの位牌が置かれている。見ようによっては、その二つの位牌が写真の中心のように写っている。 「そのとおりです。大きいほうは、父の英太郎のものです。そして、小さいほうは、私の兄である鶴雄《つるお》のものです。父と富士乃の間に、生まれたのですが、わずか二歳でこの世を去りました。本当なら、兄が新宗主になっていたところでしたが」  ますます複雑そうな人間関係だ。 「さあ、それじゃ、庭園のほうに戻りましょう」 「ええ」  桜子は、長靴をはいた。 「桜子さんのところは、職人さんは何人おられるのですか」 「常勤は三人です。大きな仕事をするときは、他から応援にきてもらいますが」 「今回の改修は、できるだけあなた一人で時間をかけてやってください」 「はあ……けど、なんでですか」  早く仕上げてくれという依頼はよくあるが、逆は少ない。 「華道では、違う人が花を生けると、同じ流派でも違った作品になってしまいます。庭もそれと一緒だと思うんですよ。できるだけ、統一性を保ちたいんです。時間はどれだけかかってもかまいません」 「わかりました」  しごく共感できる理由だ。そこまで言ってくれる依頼主はめったにいないが。  書院を出たところには、石の延べ段が造られ、その左手には手水鉢《ちようずばち》が、そして右手には方柱切石《ほうちゆうきりこ》が設けられている。  延べ段を進むと、高さ一メートルほどの細い滝が、清らかな水を池に注ぎ込んでいる。  風水の観点からは、こうした清流の存在は大事なポイントになってくる。風水は、風と水と書くように、爽《さわ》やかな風が流れ、そして清らかな水がある土地こそが、人間にとって住みやすいという考えに立つ。そんな住みやすいところで暮らす人間には、健康な生活と運気が伴うことになる。すなわち、風水は環境開運学ということになる。  この京都という町自体も、東山、北山、西山と三方をなだらかな山に囲まれ、おだやかな風に恵まれている。そして鴨川や桂川といったきれいな川が流れているという風水的には絶好の地だ。だからこそ、この地に平安京を置くことになったのだ。 「この水は善峰寺川から引いています」  善峰寺川は西山から端を発し、桂川に流れ込んでいく。 「いい滝ですね」  静寂な庭園に、滝の音が小さいながらもリズミカルに響く。  その滝からの水の流れを跨《また》いで、木製の橋が架かっている。  道頼と桜子はその橋を渡る。 「この橋から、池に映し出される月を観るのはなかなか風情があっていいもんですよ」  池は、鏡のように静かだ。鯉などの魚の姿もあまり見られない。  こういった光景を見るとホッと気持ちが和らぐ。今、流行語のようになっている癒しの効果が池にはあるようだ。桜子は、池というものが常に水平を保っていることがその一因ではないかと考えている。スーッと安定した平面は、自然界でも池以外にはなかなか見ることができない。人間社会がごつごつしたものだけに、そんな平面性に落ち着きを感じることができるのではないだろうか。  橋を渡ったところには、小さな海石を敷きつめた洲浜《すはま》が造られている。その洲浜の先端には、雪見灯籠《ゆきみどうろう》が池の水面から姿を見せていて、有名な兼六園の琴柱《ことじ》灯籠を連想させる。  洲浜を過ぎると、飛び石道が造られ、その先に外腰掛、さらに竹に囲まれた茶室がある。 「いったいどういうふうに手を加えていったらいいのでしょうか」  桜子から見ても、この洛西桂園は完成度の高い庭園だという気がする。 「まず古いところを改修してください。それと、先代の大宗主は派手好みのところがありましたので、それを地味にしてほしいのです。この洛西桂園には、庭園以外にも派手なものがあります。たとえば、あの茶室の切り妻に付けられている懸魚《げぎよ》です」  懸魚というのは、社寺の建物の破風《はふ》の下などに取り付ける魚の尾のデザインをした装飾品だ。ここから見える茶室に付けられた懸魚は金箔《きんぱく》押しで、きらきらと光っている。 「けど、ここのモデルになった桂離宮でも懸魚は金箔だった記憶がありますけれど」 「桂離宮の場合は、ちゃんと意味があります。道が複雑に入り組んでいるので、光り輝く懸魚を見れば、位置がわかるようにという意図があるのです。さすがだと思いますが、ここのはただその金箔の外形を真似ただけですから」  道頼は苦そうな笑いをかすかにたたえた。先代宗主である父の派手好みの性格のことをよく思っていないことを、その苦笑は表わしていた。 「あ、ちょうどいいタイミングで雅空さんが来てくれました。具体的なことは、雅空さんと話し合ってください。予算的には、ゆとりがないわけではありません。ぜひとも丁寧にじっくりとやってほしいのです」 「承知しました」  飛び石道を渡りながら、八橋雅空がゆっくりと長身の姿を見せた。ブレザー姿だが、烏帽子《えぼし》に和装束が似合いそうないかにも日本的な端正な外貌だ。 「じゃ、私はこれで」  道頼は、軽く会釈をして踵《きびす》を返した。その背中にどことなく、疲れとけだるさが浮かんでいるのを桜子は感じた。男の人生は後ろ姿に出ると言われるが、三十一歳の若さで新宗主として桂山流を束ねていくのは大変なことなのだろう。先代宗主の英太郎が際立った存在感とカリスマ性のある人物だっただけに、よけいに負荷は大きいのではないか。桜子は、そんな気がした。   2 失われた亭 「松原さんですね」  八橋雅空は、軽く頭を下げた。 「はい。松原桜子と申します。よろしくお願いします」 「お父さんに、目がよく似てはりますね」 「あら、そうですか」  桜子は思わず目元を両手で押さえた。 「お父さんには、ほんまにいろいろとお世話になりました」  雅空はまろやかな京都弁を話す。道頼はイントネーションはともかく、言葉としては標準語を使っていた。日本全国に弟子をかかえる宗主としては、好むと好まざるとにかかわらず、そうしなくてはならないのだろう。 「こちらこそ」 「竹林亭のほうで、話をしましょう」  雅空はゆっくりと歩き出した。  池には小さな島が造られている。その島には、唐松が一本植えられている。 「さっき、洲浜を通ってきはりましたか」 「ええ」 「あそこは天橋立《あまのはしだて》に見立てています。それから、この唐松のある島は、松島を表わしています。そして、これから向かう竹林亭の手前には、池の中に鳥居が立てられて、宮島を真似ています。つまり、日本三景ということです」  こういった回遊式庭園には、日本の名勝を再現したものが少なくない。たとえば、熊本の水前寺公園には富士山に見立てた築山が作られているし、岡山の後楽園では富士山の琵琶湖《びわこ》に浮かぶ竹生島《ちくぶしま》を模した景色が楽しめる。東京の駒込《こまごめ》にある六義園《りくぎえん》は、和歌浦《わかのうら》八十八景がテーマとなっている。  やがて、その鳥居が見えた。宮島と同じように朱塗りになっている。 「大宗主は、この日本三景が好きでした。けど、私の自慢は、竹林亭です」  少し歩くと、竹で作られた庵《いおり》が姿を見せた。 「この庭のお手本になった桂離宮には、その造営当時、桂川沿いに竹林亭と呼ばれる茶亭が造られていたのです。桂離宮の造営者である智仁親王は、�涼しさの 楽しみ思ふ 夏は来ぬ 竹をめぐりの 中の住まいに�という和歌を詠んでいます。つまり、竹をめぐらせた茶亭の中で涼しく過ごせる夏を喜んでいたわけです」 「はあ」  桂離宮に二度足を運んだことがあるが、そんな建物を見た記憶は、桜子にはなかった。 「ところが、竹林亭は増水した桂川によって、流されてしまったのです」 「そんなことがあったんですか」 「以後、現在に至るまで、桂離宮では竹林亭の再築はありませんでした。私は、不遜《ふそん》にもそれをカムバックさせてみましたのや。幸いにも、この地では、いくらでも良質な竹が得られますからね」  竹林亭は、主要部分を竹で造られていた。  雅空は見事な竹の扉を開けた。中には畳が敷かれているが、周囲の壁はすべて竹だ。青々しい竹の匂いが漂ってくるような気がする。 「桂離宮にあった竹林亭はおそらく、周囲に竹をめぐらせた木造建築やったと思います。庭師さんやったらよう御存知ですやろけど、竹は木ほどは長持ちせえしませんから、切り竹が美しい時期は、ほんまに短いです。すぐに埃《ほこり》をかぶったように黒ずんでしまいます。せやけど、映える時期が短いからこそ、竹は美しいのです。私は、そんな竹のはかなさが好きなんです」  この竹林亭の切り竹は、どれも青い光沢を持っている。 「半年ごとに、ここの竹はすべて入れ替えます。一度にはできないので、サイクルを決めて、順番に取りかかります。それが私の年中行事です」 「ずいぶんとお手間やないんですか」 「ええ、手間がかかります。けど、私には他に仕事はありません。肩書は桂山流の顧問ということになっていますが、その実は閑職です」 「あの、立ち入ったことを訊《き》きますけど、桂英太郎さんの養子にならはったのに、なんで八橋姓なのですか」 「私は十八歳のときに、桂英太郎の養子になりました。でも、そのあとで、英太郎さんは甥《おい》の政之さんとも養子縁組を交わして、親子関係を築くことになりました。そうなったら、やはり血の繋《つな》がっていない私よりも、政之さんが跡を継ぐべきでしょう。そう思わらしませんか?」 「うちに訊かはっても」  桜子は返答に困った。 「桂家では、養子の人間が宗主になった記録はこれまでありませんのや。実子である男子が相続することが、大宗主の英太郎さんまで十六代続いてきた伝統があるのです。私は、英太郎さんとの養子縁組を解消して、八橋姓に戻りました。けど、八橋の家は、すでに長男である私の兄が継いでいます。それでまあ、ここの屋敷の横にある別邸に住まわせてもらっているわけです」  雅空は哀しげな表情をその端正な横顔に浮かべた……と、桜子の目には映った。 「もともと、私には英太郎さんのような経営感覚はありません。せやから、跡を継がなくって、むしろ良かったのだと思っています」 「経営感覚がいるのですか」 「ええ。華道の家元といっても、しょせんは商売です。宣伝をして、ステータスを高めることが必要になってきます。先代の宗主は、そういった経営感覚にすぐれていたのと、高度成長による経済的余裕とカルチャーブームという世間の流れをうまく捉《とら》えたことで、成功しました。だから、桂山流はここまで大きくなったのです」  確かに桂山流の名前は、桂英太郎によって広まったと言えるかもしれない。 「だけど、時代は少しずつ変わっています。二十一世紀を迎えて、生け花ははたして今までのようなままやっていけるのかどうか……まあ、そんなことはあなたには関係ないことですが」  雅空は手で竹を触った。まるでいとしい女性を愛撫《あいぶ》するように……。  それから、彼は小さく吐息をついた。 「私は、ただ、平安貴族の流れを汲《く》む八橋家に生まれたというだけで、英太郎さんから養子縁組を望まれたわけです。私もまた桂山流のステータスを高める道具にすぎなかったのですよ」 「そうなんですか」 「桂山流に限らず、華道、茶道、古典芸能などの家元は、貴族や皇族と姻戚《いんせき》関係を結ぶことが少なくないんですよ。わが八橋家は、平安貴族の流れを汲んでいるとはいえ、経済的には苦しんでいました。広い家屋敷を維持していくのは大変です。修繕維持費もバカにならないし、旧華族だからといって固定資産税が減額されるわけでもないのです。私は、八橋家のために、売られたと言ってもいいかもしれません。まだ高校生だった私は、ろくにわけもわからないまま養子縁組をさせられることになりました」  雅空はまた息を吐いた。  京都市内に、これほど大きな私庭園を持つことができる者は限られている。桂家はその恵まれた地位を有している。けれども、きょう会ったこの家の人たちは、宗主の道頼にしても、老婆のみね子にしても、この雅空にしても、どこか不幸な影を感じさせる人間たちばかりだ。 「お父さん。桂さんのこと、詳しく教えてくれへん」  短パン姿の桜子は、風呂場《ふろば》で徳右衛門の背中を流しながら訊いた。徳右衛門は病気で倒れて以降、体が不自由になり、リハビリで少しずつ回復しているがまだ完全ではない。 「そんなこと尋ねて、どないすんねん」 「きょう行ってみて、なんや人間関係が複雑そうな印象を受けたんやわ。これからしばらく向こうで仕事をするんやし、下手に失敗したらあかんと思うし」 「おまえらの世代は、そうやってすぐに楽して予習をしよとするやろ」 「予習は大事やと思うけど」 「庭師は体で仕事を覚えていくもんや。お得意さんのことかて、いろいろ気をつこうて、勉強していったらええ」 「せやけど」 「それに、庭師は人様の家のことを口外したりしたらあかんのや。たとえ、親子でも同僚でも」 「ケチ」 「ケチやあらへん。当然のこっちゃ」  桜子は、徳右衛門の背中にタオルをかけた。 「なんや、もうしまいかいな」 「あとは自分でしてんか」  桜子はさっさと腰を浮かした。 「桜子、おまえは桂山流の生け花を見せてもろたか」 「うん、まあ」  桜子は生返事をする。 「あの竹を使うたやりかたは、桂山流独自のものや。初代の宗主が編み出して、徳川家光に庇護《ひご》を受けた。徳川家光は、東寺の五重塔を再建するなど、京都の文化に理解のある将軍やったさかいな。そのあと桂山流は隆盛するが、寛政の改革による奢侈《しやし》の制限以降はすたれることになる。そのあとは細々という感じで続いてきたが、英太郎はんが桂山流の生け花を広めて、いっきに息を吹き返すことになる」 「それくらいは、図書館で調べてもわかるけど」  桜子は唇を尖《とが》らせたままだ。 「それによって、桂山流の生け花がブームになって、全国で習い事をするお弟子さんが増えると、家元制度によって宗主には免状料がどんどん入ってくるようになった。そうやって財が築かれたからこそ、あの桂家の立派なお屋敷が建ち、洛西桂園も増設されることになった。けど、そんな英太郎はんにも、難点があった。跡継ぎのおらんかったことや」 「それで、貴族の血を引く八橋雅空さんを養子に迎えたんでしょ」 「そういうことや。けど、その養子縁組に激昂《げつこう》した者がおった。英太郎はんの弟の悟二朗はんや。悟二朗はんは、『血族がおるのに、どうして養子を迎えたのだ』と怒った」  その理由は想像がつく。英太郎のあとの宗主になれば、高い社会的地位と大きな財産的利益を手中にできるのだ。しかも悟二朗には、政之という長男がいた。 「雅空はんのほうには野心はなく、おっとりとした性格で、争いを好まなんだ」 「だから、雅空さんは養子縁組を解消したのね」 「そういうことや。雅空はんは、洛西桂園が好きなんであそこに住んでいたいと言わはって、英太郎はんとしても、雅空はんが同居していてくれたなら八橋家との関係は保てると思うたから、それをむしろ歓迎した」 「形の上では、政之さんが雅空さんを追い出して新しい養子になったわけね」 「そうなんや。ところが、政之はんが養子になったことで、悟二朗はんや姉の弓恵はん、さらにその夫のタケルはんまでもが、さながら政之はんの応援団のように桂家に乗り込んできて幅をきかすようになった。英太郎はんと一緒に桂山流の復活のために骨を折ってきた奥さんのみね子はんとの間にトラブルもあったようや。英太郎はんは、そんなあつれきからのがれるように、愛人の元に走る」 「富士乃さんやね」 「よう知っとるやないか」 「まあね。それで、富士乃さんは鶴雄さんという男の子を生むんでしょ」 「そうなんや。あきらめていた実子ができたことで、英太郎はんはとても喜んだ。みね子はんも、妾腹《しようふく》の子とはいえ、政之はんが次期宗主になるよりはましと考えた。その結果、政之はんは養子の座を追われることになる」 「ところが、鶴雄さんは亡くなったのね」 「わずか二歳でのう。それで、またもや政之はんは養子に返り咲く。ところが、富士乃はんは再び男児を出産した」 「それが、今の宗主の道頼さんね」 「政之はんは再び次期宗主の座を追われることになり、それが原因で悟二朗はんと英太郎はんの仲は険悪なものとなってしもうた。悟二朗はんや政之はんはかつては洛西桂園の奥のほうに住んでいたのやが、そこをマンション業者に売り払うて嵐山のほうへ引っ越すことになる」 「むつかしいものね。英太郎さんと悟二朗さんは兄弟なのに」 「兄弟は他人の始まりと言うが、古来から跡目争いというのは、弟と息子の間で争われることが大半なのだよ。さあ、これだけ喋《しやべ》ってやったのやさかい、もう少し背中を流してくれるか」 「ま、しゃあないわ」  桜子は、腰を下ろしてスポンジを手にした。  一人っ子の桜子には、兄弟姉妹はいない。女でありながら庭師を継がなくてはならなくなったときには抵抗を覚えたが、こういう話を聞くと兄弟姉妹で争いをするよりはずっといいと思えてくる。 「道頼さんには、翼君という六歳の男の子がいるんやね」 「そうなんや。この次の宗主は、その男の子が継ぐことになる。それで、政之はんは永遠に宗家になれへんことが確定してしもうた」 「なのに、まだ桂家にいるのね。うちやったら出ていくんやないかな」 「住んでいるところは、少し離れた嵐山のほうやそうやが、桂山流の宗主の親族という地位は捨てがたいんやないやろかな。今さら、平凡なサラリーマンにはなれへんしな」  全国に四十万人の弟子を持つ家元の一族というなら、それなりの地位を持ち、敬意も払われる。 「お父さんは、政之さんのことがあまり好きやないの」 「いや、好きとか嫌いとかは、お客さんに対して言うてもいかんし、感じてもいかん。ただ、あの洛西桂園の良さを理解してくれはるのは、まず第一に雅空はん、そして道頼はんや」  電話が鳴った。桜子は、濡《ぬ》れた手を気にしながら、居間に走った。 「もしもし、吉田景介《よしだけいすけ》ですけれど」  吉田景介は、桜子の劇団時代の後輩だ。松原造園を継ぐことになった桜子は演劇の道から身を退いたが、景介はまだ頑張っている。 「きょうはバイトやったの?」  宵の口に電話をかけたのだが、留守番電話だったので、連絡をくれるようにメッセージを入れておいたのだ。 「演劇だけでは食べられないことは、桜子先輩もよく御存知でしょ。バイトの面接に行ってたんですけど、高校生が主体みたいなんで、こっちから断りました。二十七歳なんて、オッサンもいいとこだし、責任も持たされそうだし」 「せやったら、割りのいいバイトを紹介しようか」 「また先輩の手伝いっすか」  景介には、何度か補助を頼んだことがある。 「そうよ。いやなん?」 「行きますよ。先輩なら、稽古《けいこ》があるときは休ませてくれるから」 「そいじゃ、商談成立ね」  洛西桂園での仕事はある程度の長丁場になりそうだ。道頼は、桜子一人でやってほしいと言っていたが、庭師の仕事は一人では無理な作業も少なくない。その点、アルバイトの景介なら、手の要るときにだけ来てもらったらいいから適任だ。 「何日間くらいになりそうですか」 「見積りのための計算をしてから決めるわ」 「いつからっすか」 「明日から来れる?」 「行けますよ。そいで、場所はどこですか。どんな庭なんですか」  いつものことだが、景介は好奇心が強い。   3 『源氏物語』の名園  景介は、図書館に足を運んだ。住んでいるアパートから歩いて五分のところに図書館があるから、ヒマがあればよくここに来る。冷暖房完備で、金を使わなくてもいいから、ありがたい。  景介はまず、桂離宮の本をコンピューターで蔵書検索した。二十冊を超える本が蔵書リストとして挙がった。 「一つの庭園について書かれた本が、こんなにあるのか」  景介はちょっと驚いた。もちろん、東京出身の景介でも、桂離宮の名前は知っている。しかし、見学したことはない。手続が面倒くさそうだし、京都に住んでいるならいつでも行けるからとついつい思ってしまう。  景介は、コンピューターの示す棚を探して、そこにあった桂離宮に関する本を手にして、読み始めた。その内容は、ざっと次のようなものであった。  桂御所とも呼ばれる桂離宮は十七世紀の初頭の元和《げんな》年間に、八条宮の初代智仁親王によって別荘として桂川西岸に造営された。その地は、藤原道長の別荘が建っていた場所だと考えられている。智仁親王はかつての藤原道長の別荘を再築する意図で、桂離宮を造ったと推定できる。智仁親王自身が、藤原道長の子孫にあたり、先祖の有名な別荘を復活させたいと思うのは当然と言える。  藤原道長は、紫式部の『源氏物語』の光源氏のモデルになった人物と言われており、その別荘を再現した桂離宮には源氏物語の色合いが投影されていることになる。智仁親王の兄である後陽成《ごようぜい》天皇は『源氏物語』などの国文学に大変詳しい人であり、その影響から智仁親王は源氏物語五十四|帖《じよう》をすべて読破したことを日記に書き残している。  たとえば、源氏物語の「松風」の巻には大井川という川が登場するが、桂離宮にもやはり大井川と名付けられた川があるなど、その投影はかなり色濃いと言える。  この智仁親王は、後陽成天皇の意により、その後継者となりかけたことがあった。ところが、智仁親王はかつて豊臣秀吉の養子になっていたことがあり、その経歴に難色を示したその当時の覇者・徳川家康によって反対された。すなわち、智仁親王は世が世なら、養親の豊臣秀吉の跡を継いでいたかもしれなかったし、天皇になっていたかもしれなかったのだ。ところが、運命の皮肉が、彼をどちらにもなれない男にした。そのことが政治から彼を遠ざけ、その代わりに文芸を深め、桂離宮の造営に情熱を傾けさせる結果になった。  智仁親王の子供である智忠《としただ》親王は、徳川家光からの援助を受けて、桂離宮を増設し、さまざまな庭石を集め、狩野探幽《かのうたんゆう》らを招いて墨絵を描かせた。さらに三代目の穏仁《やすひと》親王も、改築に尽力をする。  こうして桂離宮は、ほぼ現在の姿を整えていくが、八条宮家はその後の後継者がまるで何かに呪われたかのように次々と若死にしていき、九代目にして断絶をすることになる。  桂離宮は主人である家系を失ったが、その王朝文化を伝えるみやびな美しさは変わらない。昭和八年に来日したドイツの建築家ブルーノタウトは、桂離宮を見学して「実に泣きたくなるほどの美しさ」だと絶賛をしている。  この桂離宮の特徴は、大きいものとして二つ挙げられる。その一つは、月を観賞することに重点を置いていることである。桂離宮の書院群は当時の建築物としては異常なほどに高床で、軒が短い。それは、望楼と同じ建てかたであり、観月に適している。しかも最初に建てられた古書院には、月見台と呼ばれる縁台も設けられていた。さらに書院群の配置は、仲秋の名月の月の出の方角に向かって建てられている。  書院群だけでなく、小高い丘に建つ月波楼もその名のとおり、観月を目的に建てられている。池の上に浮かぶ月を観賞することを考えて、設計されているわけだ。  桂離宮の第二の特徴は、西洋的な手法を取り入れていることだ。距離が実際よりも長く見えるパースペクティブや遠近感を強調するビスタのやりかたを、園内にちりばめている。さらに書院群は、一対一・六一八という黄金比(ピラミッドやパルテノン神殿にも使われている)で構成されている。  また蘇鉄《そてつ》が植えられていることや隠れキリシタンの灯籠《とうろう》とも言われる織部灯籠が七つも置かれていることなどにも、西洋の影響を感じることができる。 「桜子先輩。これから行く庭園は桂離宮をお手本にしているということなので、ちゃんと予備知識を仕入れてきましたよ」  洛西桂園に向かう軽トラックの中で、景介は桂離宮に関して得た知識を披露した。 「やるやないの。庭師たるもの、それくらいの心構えが必要やわ」 「僕は庭師になる気はないっすよ。あくまでも舞台俳優が目標です」 「せやったわね。でも、もしあきらめたときは、うちで雇ってあげるわよ」 「いえ、ずっと先輩の下で働くのはごめんですよ。先輩はとにかく人使いが荒いんですから」 「そんなことはあらへんわよ」 「じゃ、きょうの予定は?」 「庭園の現状を、写真に撮って測量するわ。ポイントになるところは、スケッチもしておく。それから、土質の調査のためにサンプルを採るのよ」 「きょう一日で全部やるんですか」 「あたりまえよ。気合い入れてやってよ」 「やっぱ、人使いが荒いですよ」  景介は帽子をかぶり直した。  洛西桂園に着いた桜子は、隣接する竹林の入り口近くに軽トラックを止めた。 「それにしても、見事な色ですよね」  景介は深緑の竹林を見上げた。高いものだと二十メートルほどになるだろう。 「これがマダケよ。日本原産の種類で、材質が強くて弾力性に富んでいるわ」 「竹にもいろいろ種類があるんですか」 「あたりまえよ。マダケは日本原産だけれど、日本各地に見られる竹の多くは、中国原産のモウソウチクよ」 「モウソウチクですか」 「マダケより成育力が強くて、高さは二十五メートルに達するわ。食材になるタケノコの多くは、モウソウチクね」 「マダケのタケノコは食べられないんですか」 「食べられないことはないけど、味は落ちるそうよ」 「見た目はきれいだけど、食べたらまずいってことっすか。ま、ありそうな話ですけどね」 「は? なんのこと?」 「いえいえ。さあ、早く仕事をしましょう」  景介はそそくさと軽トラックを降りた。  洛西桂園に入った二人は、まず全体的な測量をした。 「桂離宮を手本にしただけあって、ほんまに見事な庭園なんやけど、奥にある�欠け�が気になるわ」 「�欠け�って何なんですか」 「風水的に見て、引っ込んでしまっている部分のことよ」  庭園の奥には、かつて悟二朗や政之が住んでいた。ところが、政之が次期宗主の地位を追われたことで、彼らは住んでいた土地をマンション業者に売ってしまった。きのう、桜子は徳右衛門からそのことを聞いた。その売られた部分は、�欠け�となってしまった。  そのマンションは、この洛西桂園を背にして建っている。これでは、せっかくの景観がそこなわれてしまっている。 「�欠け�があると、マイナスのパワーを生じてしまうのよ」 「そんなときは、どうしたらいいんですか」 「マンションとの間に常緑樹の植栽をして、マイナスのパワーを封じることよ。それで、風の通るルートが変わることが期待できるわ」  それ以外にも、細かな手直しが必要な場所はありそうだ。 「じゃ、これから二手に分れて写真撮影と土壌採取をするわね」 「わかりました」  園内を東西に分担することになった。  景介のほうは、宮島に見立てた朱塗りの鳥居のある場所から、写真を撮り始めた。 (それにしても、こんな広い庭園を持つことなんて、一生かかっても無理だな)  たとえ舞台俳優としてメジャーになったとしても、テレビや映画に出ない限り、そんなに多くの収入を望めるものではない。 (桜子さんは、こんな金持ちの庭園の世話ばかりして、嫌になることはないのかな……うん?)  カメラのファインダーを覗いた景介は、鳥居のある池端から竹林亭へ向かう登り道の途中に奇妙な積み石があることに気づいた。拳《こぶし》大の石が五つ重ねられているのだ。  景介は、それに近づいた。石には、サンスクリットの文字が刻み込まれている。墓のように見えなくもないが、それにしては小さすぎる。  とりあえず一枚写真を撮っておこうと考えた景介は、腰を落としてカメラを構えた。 「何者だ!」  いきなり背後から、怒鳴り声を浴びて、景介は体を縮み上がらせて、前につんのめった。 「いったい、そこで何をしておる」  恐る恐る振り返ると、顎髯《あごひげ》を生やした男が眉《まゆ》を吊り上げていた。小柄な男だが、しゃがんだ景介としては仁王立ちの姿勢を取るこの男の剣幕がおっかない。 「あ、あの……松原造園で、手伝いをしています吉田景介と申します」 「だから、何をしておる」 「庭の改修に備えて、写真を」 「どうして墓を撮るんだ。墓をどこかへ移すのか」 「いや、具体的な改修のことはまだ……」  やはりこの積み石は墓のようだ。 「いったい誰の差し金だ」 「ここの宗主のかたの要請だと聞きましたが」 「墓を動かすという話があったのか」 「いえ、ですから、まだ詳しいことは……ほんの基礎的な資料集めの段階です」 「そうか」  顎髯男の怒り肩が落ちた。 「あのう、ここはどなたの墓なんですか」  景介はおっかなびっくりといった感じで訊《き》いた。 「猫の墓だ」 「猫?」 「鶴雄が可愛がっていた猫だ。鶴雄の遺髪も入っておる」 「はあ」  いきなり鶴雄と言われても、誰のことか景介にはわからない。 「あなた、どうなさったの? 大きな声で」  顎髯男の妻らしい女性が、竹林亭のほうから黄色いワンピース姿を現わした。 「造園業者が、この墓を写真に撮っていたから。あるいは道頼の奴が何かたくらんでいるのかとも思ったが、そうでもなさそうだ」 「造園業者?」  黄色いワンピースの女性は細い目をいっそう細めて、景介のほうを訝《いぶか》しげに見た。  景介はやむなく頭をペコリと下げた。 「庭を改修するらしい」 「そのことで、あたしたちは呼ばれたのかしら」 「そうじゃないだろう」 「とにかく行きましょう」  二人は、景介に何も言わずに竹林亭のほうへ戻った。  見下したような態度に、景介は顔をしかめた。  何か不満があるの? と言わんばかりの視線でワンピース女性は、景介のほうを振り返った。  景介はそれを黙殺して、墓のほうにカメラを向け直した。それが精一杯の抵抗だった。   4 たたりの血文字  桂川は、右京区と西京区の間を流れる。すなわち、下流に向かって左岸が右京区、右岸が西京区となる。桂川の流れる地域の中で、最も有名な場所が嵐山地区であろう。  とりわけ渡月橋《とげつきよう》を中心とする一帯は、観光客や修学旅行生で賑《にぎ》わう。桂川には手漕《てこ》ぎボートが浮かび、近くの旅館へ客を運ぶ船も行き交う。  けれども、その渡月橋から二キロも上流に行くと、ボートも観光客も姿を消す。桂川は保津川と名前を変え、両岸に岸壁が険しく迫る。保津川下りの和船が、スリルを求める観光客を乗せて下る以外は、船もほとんど通らない。ましてや夜間や早朝の時間帯となれば、極めて静かだ。  木村靖男《きむらやすお》は、山菜を朝どりするために、いつものように午前七時に家を出た。保津川沿いの細い山道を歩いたところに、彼の農地がある。そこで取れるワラビやゼンマイを、清滝《きよたき》にある料理屋に納品する。清滝は保津川の支流である清滝川の両側に開けた集落で、愛宕山《あたごやま》への登山口として栄え、文人墨客の清遊の地として親しまれてきた。その清滝川をさらに上流に遡《さかのぼ》ると、京都屈指の紅葉の名所である高雄《たかお》になる。  実直な木村は、お得意先である料理屋が定休日である水曜日を除いて、雨の日も雪の日も判で押したように毎朝出かける。山の斜面を切り開いた小さな畑では、本来ならたいした収穫は期待できないのだが、山菜ができるお蔭で彼の生活は支えられている。  木村は、ゆっくりと山道を歩く。人一人通るのがやっとの、けものみち同然の狭い道だ。昼間はごくたまにハイカーが通ることがあるようだが、木村はほとんど出会ったことがない。この狭い道で人とすれ違うことがあれば、気をつけなくてはいけない。うっかり足を踏み外そうものなら、たちまち保津川に転落してしまう。この高さから落ちると、まず命の保障はない。 「たたりだ〜」  いきなり男の叫び声が対岸から聞こえてきた。対岸にも、細い山道がある。声はどうやらそこから発せられたようだが、このあたりは保津川が大きく曲がっているので、対岸の山道はよくは見えない。 「ダイソウシュのたたりだ」  また男が叫んだ。  木村は足を止めた。尋常でない様子が伝わってくる。 「ダイソウシュに、とんでもないことをしてしまった」  姿の見えない男の声は、絶叫に近かった。  次の瞬間、木村は足をすくませた。  対岸の岸壁は曲がっているために、ちょうど大きな艦船の舳先《へさき》のようにも見えるが、その舳先の切っ先にあたる部分から、人影がまるでダイブするように飛び出した。 「うぉおぉー」  絶叫は悲鳴に変わった。  人影は渓谷の斜面に二度三度とぶつかりながら、保津川に向かって落ちていく。  木村は息を呑《の》んだ。まるでアクション映画の一シーンを見ているかのような錯覚に囚《とら》われた。  だがこれは現実だ。木村は目をこすった。  人影は、保津川に向かって転落した。今の木村の位置からは、その川岸までは見えないが、あの高さから落ちて、助かる見込みは少ない。 (しかし……)  放っておくわけにはいかない。木村は家にとって返した。危うく自分も、足を踏み外しそうになる。 (こんなことが起きるとは……)  木村は悪い夢を見ている思いだった。  それにしても、ダイソウシュとはいったい何の意味なのだ。それに、たたりとは——。  ひどく気味の悪い出来事だ。  家にたどり着いた木村は、電話の送受器に飛びついた。  そして一一九をダイヤルした。その指の震えが止まらない。  通報を受けたが、とても救急車が行ける場所ではない。  嵐山の旅館に連絡を取って、宿泊客送迎用の船に、救急隊員二人が乗せてもらうことになった。  木村がその途中の川岸までやってきて、船に同乗して現場へと案内した。  通報から約十分で、救急隊員は現場に到着することができた。  岩場の川岸に、ポロシャツ姿の男が仰向けに倒れていた。男は頭から血を流し、微動だにしない。 「もしもし」  救急隊員は、男の肩を揺すった。だが、反応はない。目をカッと見開き、顎髯《あごひげ》が天を向いている。 「これは何だ……」  もう一人の救急隊員が、男の横にある大きな岩の壁面を見て、驚いた。その壁面には、血文字で�たたり�と読める三文字が記されていた。  男の人差し指は、血でその先が赤く染まっていた。 「指で書いたのか。死ぬ間際に」  救急隊員の声が固まった。  男の身元は、ズボンのポケットに入っていた運転免許証で確認できた。  桂政之、四十八歳だった。住所は、ここから近い嵐山の一角にあった。   5 身内の不幸  その朝、桜子が景介を乗せて洛西桂園に着いたのは、午前八時半のことだった。だが、洛西桂園の門扉は閉じられていた。 「早く来すぎたんやろか」  やむなく桜子は桂家の屋敷のほうへ回ることにした。 「おはようございます。松原造園ですが」 「はあい」  応対に出てきたのは、内弟子の久保井杏奈だった。  景介はちょっと見とれたような声を出した。 「きれいな人だな」  桜子は景介の足を軽く踏んだ。確かに女性の目から見ても、きれいだと思う。ほとんど化粧っけがないのに、透き通るような肌、涼やかな切れ長の目、すっと通った鼻筋……けれども、整いすぎていてどこか陰鬱《いんうつ》さを感じさせる顔立ちだ。 「恐れ入ります。宗主はただ今、急用で出かけました」 「それで、庭のほうはどないさせていただきましょう」  きょうはだいたいの改修プランを持ってきている。 「できる範囲でやっていただいたなら、と思いますが」 「いつごろこっちへ戻ってきはる予定なんですか」 「ちょっとわかりません。身内に不幸がありましたので……いずれまた連絡が入ると思いますが」  杏奈はまるで能面のように、ほとんど表情を変えない。 「そうですか。じゃ、とにかく剪定《せんてい》をさせていただきましょうか。門を開けてくれはりますか」 「はい、門の前でお待ちください」  杏奈は奥に消えた。屋敷の奥から洛西桂園に出ることができる。彼女はそこから回って、開門してくれるわけだ。  桜子は景介とともに、門に向かった。 「身内に不幸って、どんなことなんでしょうかね」 「うちら庭師は、そんなことに関心を持ったらあかんのよ」 「でも、不幸があったにしては、今のきれいな人は、淡々とした感じで話していたじゃないですか」 「あの人は内弟子だってことだから、身内といっても彼女には直接の関係があらへんのやろし」 「内弟子か。それなら、ここに住み込みなんでしょうね。でも、あんなきれいな人がどうして住み込みなんかを」 「それは、人それぞれでしょ。華道に魅《ひ》かれはったんやないのかな」 「ふーん。でも、もったいないよな。内弟子なんてけっこう修業が大変そうだし」 「それは景介君の価値観でしょ」  桜子たちが門に着くとほぼ同時に、門が内側から開けられて、杏奈がすらりとした姿を現わした。 「あの、不幸があったって、どんなことだったんですか」 「景介君」  桜子は、景介をたしなめた。 「でも、場合によっては、僕たちのスケジュールが変わってくるんじゃないですか」  景介はちょっと唇を尖《とが》らせる。 「宗主のいとこにあたるかたが急に亡くなられたということです。造園作業に影響があるかどうかはわかりかねますが」  杏奈はやはり表情を変えない。 「差し出がましいことを訊《き》きまして、申し訳ありません。さあ、景介君」  桜子は景介の手を引きながら、剪定作業に取りかかった。  これだけの広さの庭園だと、剪定だけでもかなりの時間がかかることになるだろう。 (宗主のいとこか……)  アカマツの木に梯子《はしご》をかけながら、桜子はふと思った。この桂家で、道頼のいとこになる人物は、二人しかいない。道頼の叔父《おじ》にあたる悟二朗の子供である政之と弓恵だ。そのどちらかが急死したことになる。 「こんなでっかい庭園を持っているけれど、この桂家はつかみどころがない感じがして、僕は苦手だな」  景介はブツブツ言いながら、梯子を支える。 「何を言っているのよ」 「華道の家元っていったい何をやっているんですかね。どうも京都という奥深い都市には、僕たち東京の人間にはわかりにくい職業がありますよ」 「簡単に言うと、花の生けかたを教えてはるのよ」 「それだけで、こんなに大きな庭や屋敷が持てるのですか」 「伝統に裏打ちされているからよ」 「その伝統というのがよくわからないんですよね。ただ古くからあるっていうだけでしょ」 「それがそうでもあらへんのよ。さあ、そんなことより、梯子をしっかり持っていてよ」  桜子は声を張り上げる。つかみどころがない思いをしているのは、桜子も同じだ。桜子のような地元の人間でも、京都の旧家というのは見えにくいところがある。京都には�白|足袋《たび》に逆らうな�という警句がある。白足袋をユニフォームとする公家《くげ》、僧侶《そうりよ》、花街関係者、呉服商人、家元といった人間たちは、別格扱いされてきたと言える。すなわち、庶民にとっては、なかなか窺《うかが》い知ることのできない別階級ということになる。  一時間ばかり剪定をしたところで、久保井杏奈が細身の姿を見せた。 「恐れ入ります。ちょっと警察のかたがお話があるそうです」 「え、警察がうちに何の用なんやろ?」  梯子の上から桜子が小首をかしげた。 「あなたではなく、そちら様です」 「ぼ、僕?」  景介は思わず支えていた梯子から手を離して、自分の鼻を指す。 「もうっ」  桜子はあわててバランスを取った。 「仕事中に、ちょっと失礼しますな」  杏奈の後ろから、二人の私服刑事が現われた。 「あんた、名前は?」  年配の刑事は自分たちは名乗らずに、いきなり景介に尋ねる。 「吉田景介です」 「住所は?」  刑事はメモ帳を取り出す。  景介は住所を告げる。映画村に近い右京区|太秦《うずまさ》のアパートに彼は住んでいる。 「ほう、右京区か。嵐山には近いな」  刑事は景介の反応を窺うように見た。 「それがどうかしたんですか」  刑事は景介の問いには答えない。 「で、植木屋をやって、何年になるのかね」 「僕は手伝いですから」  桜子は梯子から降りた。 「あの、彼はアルバイトです。質問があるなら、うちに」 「あんたは黙っていてください」  若いほうの刑事が、大きな手のひらを向けて遮る。桜子はそれ以上割り込んでいく余地が見つけられない。 「きのう、桂政之さんと言い争いをしたね」  年配の刑事は、景介に詰問調に訊く。 「は? 誰ですか。桂政之さんって」 「この男性だ」  刑事は、免許証のコピーを示した。その顔写真の顎髯《あごひげ》に、景介は見覚えがあった。昨日、猫の墓の写真を撮ったことで、怒鳴りつけてきたぶしつけな小柄な男だ。 「政之さんの奥さんが、『植木屋の若い男性と言い争いをしていた』と話している。そのことは認めるね」 「言い争いというか、ちょっと叱られたんですよ」 「トラブルになったんじゃないのかね」 「そんなことはありません」 「景介君。うちは、そんな話は聞いてへんわよ」  桜子が口を挟んだ。 「桜子さんにわざわざ報告するほどのことじゃなかったんですよ。それに不愉快なことだったし」  景介は、きのうのことを刑事と桜子に説明した。  刑事は、それをメモに控えていく。 「けど、どうしてそんなことを警察が調べはるのですか?」  桜子は黙っていられない。 「政之さんが亡くなったからね」  やはり、急死したのは政之だった。 「政之さんはどんなふうにして、亡くならはったのですか」 「あんた、なぜそんなことを訊くんだ?」  若い刑事が、怪訝《けげん》そうに桜子を見た。 「普通の死にかたやったら、こんなふうに取り調べはることはあらへんのとちゃいますか」 「これは、取り調べじゃない。あくまでも、事実確認といったところだ」  刑事はそう言い残して、立ち去っていった。 「まいったな……まさか、僕が何かをしたと疑われているってことはないですよね」  景介はちょっと不安げに刑事を見送る。 「本当に、トラブルにはなってへんのやね」 「なっていないですよ。信じてくださいよ」 「その猫のお墓というのを、見ておきたいわ」 「わかりました」  景介と桜子は、きのう政之から「何をしている」と怒鳴られた場所へ向かった。  そこには、先客がいた。  白髪のみね子が、墓に向かって正座をして、手を合わせて、語りかけていた。桜子たちが近づいたことには気づいていない。 「愉快じゃのう。政之は『大宗主のたたり』と言い残して死んだそうじゃ。やはり大宗主は、あの男に殺されていたのじゃ。そして、鶴雄よ。あんたも同じように、あの男に殺されたんじゃないかのう。ホッホッホ……ようやく天罰が下ったわけじゃ……ホッホッホ」  折り曲がった腰が、笑い声とともに波打っている。  景介と桜子は、近づく足を止めた。えも言われぬ気味悪さを二人は感じていた。  みね子が、その気配に振り向いた。  白髪がはらりと皺《しわ》だらけの額の前にかかる。その額の下で、くぼんだ眼窩《がんか》から鋭い視線が光っている。 「あんたら、ここに何の用じゃ」 「すみません。剪定の下見に来ました」  桜子はとっさに取り繕った。 「剪定? 庭をいじるのか」 「改修を頼まれましたので」 「誰から?」 「道頼さんの御要望です」 「聞いとらんのう。じゃが、まあ、ええ……あの政之が亡くなった。喜ばしい日じゃ」  老婆は、口元に笑みをたたえた。 「先輩、行きましょう」  景介は、桜子の腕を引いた。 「そうね」  とにかくこの場は立ち去ったほうがよさそうだった。   6 公葬はせず 「なんか、おっかなかったですよね」 「『大宗主のたたり』って、何のことかしら」 「僕にわかるわけないっすよ」 「とりあえず、お屋敷のほうへ行きましょう。道頼さんが帰ってきてはるかもしれへんし」  そのとき、書院のほうから女の声がした。 「それが主人の意思です。あたくしはたった今、主人から電話でその意思を申し受けました」  上品そうな若い女が書院から出てきた。続いて出てきた禿《は》げ頭の男が、激しい口調で女に言い寄る。 「どうしてだ。政之は、一時はこの桂山流の宗主後継者になった男だぞ。それなのに、公葬をしないとは」  どちらも、きのう道頼に見せてもらった集合写真に写っていた人物だ。  女のほうは、道頼の妻の千代だ。禿げ頭の男は、政之の父親である悟二朗である。 「桂山流として公葬にするかどうかは、宗主が決めていいはずです」 「なんだと、偉そうな口を叩《たた》きおって。いったい何様のつもりだ」 「あたくしは、宗主の妻です」  千代は毅然《きぜん》とした顔で、悟二朗に言い返す。 「好きなようにほざいているがいい。夫と子供がいなくなれば、おまえは桂家とは縁のない女だ」 「どういう意味ですか。夫と息子を殺す気ですか。大宗主のときのように」 「またそのことを」  悟二朗は平手で千代の頬を打った。バシッという音が響く。  景介が駆け寄ろうとした。それを桜子が制した。  書院の中から、師範総長の下市規久男が飛び出してきた。 「おやめください。桂家の恥になります」  下市は取り成すように割って入った。 「このアマが……」  悟二朗はなおも頬を紅潮させている。 「失礼を許す気にはなりません」  千代はそう言い残して、小走りに去っていく。  悟二朗は、下市になだめられるようにして、書院の中に入る。  ようやく静けさが戻った。 「人というものは、争いをやめない哀しい生き物です」  背後からの声に、桜子はびっくりして振り向いた。  着物姿の八橋雅空が立っていた。 「驚かせてすみません。散策をしていたら、千代さんたちの声が聞こえたもので」  雅空は、桜子に軽く頭を下げた。 「政之さんが亡くなったと聞いたんですけど」 「ええ。詳しいことはよう知りませんが、保津川に身を投げて死んだそうです」 「身投げ……それじゃ、自殺ということでしょうか」 「先ほどの警察のかたの話では、『自殺と考えられるが、その動機がはっきりしない』ということでした。それで、警察のほうでいろいろ確認をしてはるようです」  年配の刑事が「あくまでも、事実確認といったところ」と言っていたのは、その意味のようだ。  桂家のような白|足袋《たび》の人間が死んだとなると、警察としても結論を出すのは慎重に、ということなのだろう。 「それに政之さんは妙なことを叫びながら転落したそうで、警察としてもすんなりと自殺だと決められへんのやないでしょうか」 「妙なこと?」 「政之さんは『大宗主のたたりだ』と叫びながら、転落していったそうなんです」  みね子が口にしていたのは、そのことのようだ。 「すみません。立ち入ったことを訊いてしまいますけど、今の千代さんの『夫と息子を殺す気ですか。大宗主のように』というのはどういう意味なのですか」  さっきもみね子が「やはり大宗主は、あの男に殺された」と�猫の墓�に向かって語りかけていたのを聞いたばかりだ。  庭師として出しゃばってしまうのはいけないのはわかるが、桜子としては気になってしかたがない。 「大宗主は、一昨年の桂山流総会の直後に倒れました。その前夜のことなんですが、政之さんが桂川で獲ってきた鮎《あゆ》を塩焼きにしたものを、それが好物やった大宗主は食べたのです。大宗主は『腹が痛む』と言いながら、大事な総会なので無理をして出席したということです。そのあと病院へ担ぎ込まれて入院したのですが、腹膜炎などを併発して、高齢の大宗主は結局帰らぬ人となりました」 「亡くなった原因は、食べ物やったのですか」 「ようはわかりませんが、直接の原因ではなかったようです。亡くなったのは、入院して五日目のことでした」 「それなら、どうして�殺された�という表現になるのでしょうか」 「まあ、入院のきっかけにはなったかもしれませんさかいに」  もしも故意の犯罪ということがはっきりしていたなら、警察が放ってはおかなかったと思えるのだが。 「道頼さん、千代さん、それにみね子さんの三人は、大宗主は殺害されたと思っておいでのようです。政之さんは、いったん跡継ぎになることが決まっていた。それを覆されたために、恨みを抱いていると」 「恨み、ですか」 「せやったら、この私も疑われる対象になりますね。政之さんと同じように、私もいったんは大宗主の養子となり、跡継ぎになることに内定していたのですさかいに」  雅空は少し複雑な表情を浮かべた。 「せやけど、あなたは英太郎さんとの養子縁組をすでに解消していたのでしょ」 「それはそうなんですけど」 「あのう、みね子さんは、幼い鶴雄さんもまた殺されたと考えてはるようですが」  桜子は、鶴雄の遺髪を埋めた墓に語りかけていたみね子の姿を忘れることができない。 「みね子さんがどう考えてはるのかは、ようわかりません。鶴雄さんの母親である富士乃さんがその疑いを持ってはるのは確かですが」  雅空は曇り空を仰いだ。  この桂家は、かなり複雑に人間関係が入り組んでいる。そして、鶴雄が二歳で小さな命の火を消し、大宗主が亡くなった。今、こうして政之が不慮の死を遂げた。 「いずれにしろ、同じ一族で家督争いをし、そのために誰かを殺したのではないかといった疑いをかけなくてはいけないのは、哀しいことです」  雅空は小さく首を振った。  大宗主の英太郎を殺したのではないかと疑惑を向けられた政之が、けさ死んだのだ。ますます事態は複雑になってきた。  雅空は軽く会釈をして、俯《うつむ》き加減に歩いていった。 「なんか人物関係がややこしいですね。ちょっと整理をしてみませんか」  景介がそう提案した。 「せやね」  桜子は手帳を取り出した。そして、桂家の人物関係図を書き始めた。 「この桂家に属している者は全部で十二人やわ」  道頼に見せてもらった写真に写っていたのは十四人——そのうち、師範総長の下市規久男と内弟子の久保井杏奈は、桂家の人間ではない。 「桂家十二人のうち、けさ亡くなった政之さんを中心とするグループが六人を占める。政之さん、その妻の喜子さん、姉の弓恵さん、その夫のタケルさん、その子供である奈津美さん、そして政之さんと弓恵さんの父である悟二朗さんで、計六人やわ」 「十二人のうちの六人なら、半分ですよね。さしずめ、最大派閥ってとこですか」  だが、その最大派閥の人間が、桂家の宗主にはなれないグループなのだ。 「次に、道頼さんのグループやね。妻の千代さん、息子の翼君、そして母の富士乃さんの計四人」 「どちらのグループにも入らないのが、みね子さんと八橋雅空さんの二人か」  六人と四人と二人で、計十二人だ。 「こうして整理すると、ちょっとすっきりしたかしら」  桜子は人物関係図を見つめた。 「それにしても、『たたりだ』なんてホラー映画みたいっすね」 「本当にそんなことを政之さんは叫んだのかしら」 「大宗主の英太郎が亡くなったのは、いつなんですか」 「二年ほど前よ」 「今さら、たたりなのかなあ」 「たたりに時効はないでしょ」 「あれ、桜子先輩はたたりを肯定するんですか」 「せやないわよ」  この世には科学で説明できないことはあると思う。だからといって、いろんなことを超常現象として捉《とら》えることには賛成しがたい。 「良心の呵責《かしやく》というやつでしょうか」 「それも考えにくいわ」  もしも政之が、英太郎を死に追いやったのだとしたら、普通の人間ならそのときに良心の呵責に悩まされていたのではないか。二年後に、ということは考えにくい。 「でも、どうなんですかね。せっかく養子になったのに後継からはずされたのは確かに恨みに値するでしょうけど、それだからといって大宗主を殺そうとしますかね。結局、自分の代わりに後継者になった道頼が宗主の座につくことを早めるだけでしょ」 「そらそやね」  同じ殺すなら、後継者の道頼を狙ったほうが、はるかに利がある。 「竜彦《たつひこ》君。今、忙しい?」  桜子はほんのちょっと遠慮しながら、携帯電話を持った。 「検事はいつだって忙しいですよ」 「この時間帯なら、お昼休みやないの?」 「まあ、そうだけど」  水川《みずかわ》竜彦は、隣家に住む同い年の幼馴染《おさななじ》みだ。小さいころはよく一緒に遊んでいたが、秀才の彼は国立大学に現役合格して、司法試験にもパスして検事となった。そのあと東京で上司の娘と結婚したと聞いた。ずいぶんと遠い世界の人間になってしまったと思ったが、離婚して実家に戻ってきた。今は京都地検の検事を務めている。 「気にかかることがあるので、ちょっと教えてもらえへんかな」 「何を?」 「けさ、桂政之という人が亡くなったと思うけど、どういういきさつやったの」 「おいおい。検察の人間が、一般人にそんなことをべらべらと話すことはできないよ」 「うちは、今その桂家の庭園に出入りしているのよ。せやし、事件関係者なんやわ」 「それでも、話せないな」 「そんなにややこしい事件なの?」 「そうじゃない。地元の警察署では自殺という結論を出しつつある」 「その根拠は?」 「目撃者がいたからね」 「その人が、『たたり』だと聞いたの?」 「よく知っているね……おっと、うまく乗せられたけど、もうこれ以上は喋《しやべ》れない。電話を切るよ」 「待って、もう一つだけ。桂山流の前の宗主である桂英太郎は知っているでしょ」 「名前はね」 「その桂英太郎の死因に不審な点はなかったかどうか、調べてほしいの。二年前のことだけど」 「あの、なあ」 「うちは、小さいときにいじめられっ子だった竜彦君を助けてあげた記憶があるんやけどなあ……たとえば、おじいさんからもらった腕時計だって見つけてあげたよねっ」  竜彦が祖父からもらって自慢していた腕時計が、プールでの水泳の時間にいじめっ子たちに盗《と》られて隠されたことがあった。更衣室に残っていたのは、『ここにある』とだけ書かれた一枚の紙で、それを持って竜彦は泣きベソをかいていた。桜子はその紙がA4サイズだったことから、4年A組に向かい、その最前列の机の中に入っていた腕時計を見つけてあげた。 「そんな昔のことを持ち出されても……」 「ま、考えておいてね」  桜子は、そう言って電話を切った。  予想どおり、竜彦からのリアクションはその夜のうちにあった。  竜彦が、桜子の家のインターホンを押した。 「水川です。これから、犬の散歩に行くけど、建勲《けんくん》神社の鳥居の前で休憩するから」  竜彦はそれだけ言って、一方的にインターホンを切った。  桜子の家は、北区の船岡山《ふなおかやま》のすぐ近くにある。かつて平安京を造営する際に、メーンストリートである朱雀《すじやく》大路の起点とされた由緒のある山だ。その船岡山の南半分に、織田信長を祀《まつ》る建勲神社がある。  桜子はすぐにジョギングジャージーに着替えて、外へ出た。そして、駆け足で建勲神社の鳥居に向かう。  竜彦は、犬の頭をなでながら、神社への石段に腰を下ろしていた。 「こんばんは」  白々しいと思いながら、桜子は挨拶《あいさつ》をして竜彦の横に座った。 「まいったよ。君は検察を何だと思っているんだ」 「うちらの税金で運営されている組織でしょ。市民から告発があったら、調べる義務があるんとちゃうの」 「しかし、便利屋じゃないよ。まあ今回は、あの名家の関係者が死んだだけに、ぞんざいには扱えないけど」 「ほら、そうでしょ」 「ちょっと黙っていてくれないかな。これから喋ることは、おれの独り言だから」 「わかったわ。黙って、聞き流すから」 「桂山流と言えば、華道界の名門だ。そこの有名宗主だった桂英太郎の死を警察が洗わないわけがない。二年前に、ちゃんと捜査はなされたよ。直接の死因は、心不全だった。高齢のうえに、過労がたたり、腹膜炎を起こしたというのが、入院先の医師の診断だよ。腹痛を起こしたのが最初の入院のきっかけだったということなので、それも調べられたよ。桂英太郎は、好物の鮎《あゆ》を食べて、そのあと腹痛を訴えたということだけど、食べ残していた鮎を調べたところ、何の異状もなかった。桂英太郎は、間違いなく病死だ。だから、その�たたり�というのは、ちょっと合点がいかない。しかも、二年後の今になってだ。けれども、桂政之が『大宗主のたたりだ』と叫びながら、自分から保津川に飛び込んだのは、目撃者もいるので確かだ。結局、桂政之は幻想に囚《とら》われていたと考えるしかない。自殺者というのは往々にして、被害者意識や強迫観念にさいなまれている。彼も、そんな心理状態だったのだと思う」  その前日に、景介は鶴雄の可愛がっていた猫の墓の写真を撮っていたというだけで、桂政之にひどく怒鳴られていた。それも、やはり政之の不安定な精神状態の表われだったのかもしれない。 「要するに、二年前の英太郎さんの病死、そしてこのたびの政之さんの自殺と、桂家には不幸が続くことになったけど、事件性や犯罪性は考えられないよ」  竜彦は立ち上がった。 「ありがとう」  桜子は小さく竜彦に向かって言いながら、その場に残った。   7 箱書の稼ぎ  道頼の意向どおり、政之の死は、桂山流としては公葬扱いをしなかった。  したがって、洛西桂園がそのために何かに使われるということもなかった。  桜子は、きのう確認できなかった改修プランを道頼に示すために、屋敷に足を運んだ。 「少しお待ちください。私も、所用があるのですが」  宗主室に隣接した控えの間では、師範総長の下市規久男が少し苛立《いらだ》った顔をしていた。彼は、黒ネクタイに黒の上下服だ。 「政之さんの葬儀があるのですか」 「ええ。嵯峨野《さがの》の葬祭センターで行なわれます。きょうは通夜で、明日が葬式です。通夜での献花のことで、宗主に相談をしたいのですが」  下市は、道頼のいる宗主室のほうを窺《うかが》う。 「御来客なのですか」 「ええ」  耳を澄すと、襖《ふすま》越しに女性の話し声が聞こえてくる。 「長引きそうですか」 「いえ。お箱書《はこがき》の依頼ですから」 「お箱書?」 「茶道で、茶碗《ちやわん》の桐箱の裏などに家元が花押入りで墨書をすることがあるでしょう」  それは桜子も見たことがある。誰々が焼いた茶碗であることを、家元が証明した鑑定のようなものだ。 「華道でも、花器の箱に墨書をすることがあるのです」  襖が開いて、和服姿の小太りの中年女性が尻《しり》のほうからにじり出るようにして姿を現わした。 「宗主様。どうもありがとうございました」  女性は深々と頭を下げて、ゆっくりと襖を引いて閉じた。その手には、風呂敷《ふろしき》包みが大事そうにかかえられている。 「あの」  女性は、襖の向こうの宗主にもう一度頭を下げたあと、下市のほうを向いた。 「恐れ入りますが、もう一点、お箱書をいただきとうございます」 「もう、きょうのところは」 「宗主様のほうから、『他にあるならば、早く申請しなさい』とお言葉をいただきました」  下市は、額に皺《しわ》を寄せながら、しかたがないといった顔をした。 「現物をお持ちになっているのですね」 「車のほうに」 「では、拝見いたしましょう」  和服姿の女性は、風呂敷包みを置いたまま、おずおずと廊下に出ていく。 「あのかたは?」  桜子が下市に訊《き》く。 「中京区にお住まいの、古くからの師範です。よくお見えになります」  いかにもお花の先生らしい容貌《ようぼう》だ。 「お箱書をもらうには、どうするんですか」 「申請できる人間は、師範の免状を持つ者か、出入りを許されている道具業者に限ります。それを、私かもしくは内弟子の久保井が、事前審査をします。値打ちがあるものなら、『お預かりします』と答えます。けれども、それでお箱書ができるとは限りません。決めるのは、あくまでも宗主です。宗主が了解なさったときは、『お箱書ができております』という葉書を出します。しかし、宗主の了解が得られなかったときは、『家元がお好みになりませんでした』という葉書になります」 「結構、手間がかかるんですね」 「そう簡単には、お箱書はするものではないのです。大宗主はめったにお箱書をなさいませんでした。現宗主もその方針を受け継ぐと言っておられましたが、なぜか、ここ最近になって急に」  下市は喋りすぎたという顔を見せて、口をつぐんだ。  そこへ、先ほどの師範の女性が別の風呂敷包みをかかえて戻ってきた。 「どうぞ、よろしくお願いします」 「拝見します」  下市は丁寧に風呂敷包みを開ける。中には、古伊万里焼き風の花器が入っていた。渋い薄黄色で、少しひび割れが入っている。下市は、慎重にその花器を目利きする。 「お預かりします」 「ありがとうございます。それと、遅れましたが、今回のお箱書料です」  和服姿の女性は、ふくさを広げて紅白水引きをつけた熨斗《のし》袋を差し出した。 「査収いたします」  下市は、受け取る。桜子は、その分厚さに目を見張った。百万円といったところだ。 「どうもお世話になりました。またよろしくお願いいたします」  師範の女性は、もう一度丁寧に礼を言いながら辞去していった。  下市が予備審査の目利きをして、葉書連絡をして、宗主が一筆書き添える——それだけで百万円というのは、商売的にはかなりボロいと言えるのではないだろうか。それも、向こうから頭を下げて頼んでくる。 「師範のかたたちは、どうしてお箱書を欲しがらはるのですか」 「師範は、お弟子さんを集めて生け花会を開きます。そのときに、箱書のない花器ばかりを並べていたら、お弟子さんから『先生、あんまりええ道具を持ってはらへん』ということになりますから」  下市は、そう説明した。  確かに京都人には、外づらや肩書を重んじる風潮がある。それが何もないときには、こっそりと陰口を叩《たた》かれることはよくある。 「さあ、お通夜の献花の相談をしなくては……ちょっと待っていてください」  下市は腰を浮かして、宗主室に入っていった。さっき査収した熨斗袋と預かった古伊万里焼き風の花器を手にしている。  桜子は、そのまま控えの間で待つことにした。  静かなだけに、耳を澄ませば、宗主室の会話が襖を通して聞こえてくる。 「また花器を預かることになりました」 「どんどん預かってくれ」 「宗主。苦言を呈するようではありますが、お箱書はもう少し控えられたほうが」 「どうしてだ」 「大宗主はめったにお箱書をなさいませんでした」 「大宗主は大宗主、私は私だ」 「しかし、古道具屋の間で、家元の箱書があれば中身の値打ちが二倍三倍に跳ね上がると言われていることを御存知でしょう。先ほどの師範だって、それをアテにして高い箱書料を払っていると思えます」 「かまわないではないか」 「あの師範が、花器の値打ちが上がったと喜んでいる程度では、どうということはありません。でも、箱書は独り歩きをしてしまう恐れがあります。あの箱の中身が入れ替えられて、ひどい安物が売られたとしたら、結局は宗主の名を落とすことになってしまいます」 「それは売る側のマナーの問題だ。華道をする人間に、そのような輩《やから》はいないと私は信じている」 「最近の宗主は、お金に執着しすぎではありませんか。箱書をどんどん増やされたり、免状料を引き上げられたり」 「師範総長の君に、そこまで言われたくない」  道頼は声のトーンを上げた。  下市はもう反論しない。しばらく沈黙が続く。 「用件はそれだけか」 「いえ、政之さんの通夜の献花のことです。桂山流として、どの程度のものにしましょうか」 「三万円のものにしておいてくれ」 「そんな程度でいいのですか」  下市は少し驚いた声を出した。 「桂家の一員ではあるが、会報出版の仕事しかしてもらっていない。しかも、名目的に編集長の立場にいるだけだ。それに……大宗主の亡くなる原因を作った人間だ。会として、そんなに手厚い対応はすべきではない」 「はあ」 「三万円で充分だ」 「承知しました。それでは」  桜子は、襖《ふすま》から離れて、居住まいを正した。  これまでの道頼のイメージが崩れた気がした。温厚で紳士的で、そんなに金銭に執着しているようには見えなかったが。 「失礼いたします」  下市と入れ替わる形で、桜子は宗主室に足を運んだ。 「やあ、ご苦労さん」  道頼は、柔和な笑顔を見せた。 「改修の大まかなプランを持ってきました。見てくれはりますか」 「それはどうも……前も言ったように、思う存分にゆっくりとやってください。費用のほうも気にしないで」 「はい」  道頼は、下市と相対しているときとは別人のようであった。京都人には裏表があると言われるが、ここまで極端なのは珍しいかもしれない。  桜子は、戸惑いながら改修プランの設計略図を広げた。 「あ、それから桜子さんは携帯電話をお持ちですか」 「はい、持っています」 「番号を教えてください。私のも、お教えしますから」  道頼は、自分の携帯電話を取り出した。古式ゆかしい家元と携帯電話は、いくら現代でもちょっとミスマッチのような気もする。 「これも御時勢というやつですよ。不似合いなのはわかっていますが、急ぎの連絡がかかってくることがありますので、私と下市だけはいつも携帯電話を持っています」  道頼は苦笑した。   8 織部灯籠  桜子の改修プランを、道頼はすんなりと了解してくれた。  桜子は、さっそく工事の下準備に取りかかることにした。きょうは景介は午前中は演劇の稽古があるので、午後から来ることになっている。  まず洲浜の近くに植わっているモッコクが大きくなりすぎている。せっかくの洲浜の風景を遮っている観は否めない。そこでこのモッコクを移動させる。その代わりに桜子が考えたのが、梅だ。�つくばいに梅�という言葉があるように、梅は水と関わりが深い。かつては雨が降ると、梅の実や葉の消毒作用で水が潔《きよ》くなると考えられていた。  洲浜は天橋立をイメージしているので、常緑のモッコクよりも、梅のほうが季節感も出る気がする。  桜子は、モッコクの移動作業に取りかかった。 「精が出ますね」  かけられた声に振り返ると、そこに着流し姿の雅空が立っていた。 「あ、どうも」  雅空とはよく会う。それだけ、彼はこの庭が好きなのだろう。 「改修プランは決まったのですか」 「ええ。だいたいは」 「一つお願いがあるのですけど、あの池に浮かぶ雪見灯籠《ゆきみどうろう》を変えたいと思うてますのや」 「どこに移し替えるのですか」  雪見灯籠は中台の下あたりまでが、池の中に浸っている。それはそれで、風情を醸し出していると桜子には思えるのだが。 「場所じゃなくって、灯籠の種類を、雪見から織部《おりべ》にしたいのです」 「はあ」 「あなたのお父さんとこの庭園を増設したときにも、そのことは考えたのですが、大宗主は雪見灯籠が好きでした。ですから、あきらめたのです。ぜひこの機会に」 「けど、なんで織部に?」 「桂離宮には計二十四本の灯籠が置かれていますが、そのうちの七本は織部灯籠です。それも池の周囲の要所要所にぐるりと配置されています。桂離宮の特徴の一つと言えます。この洛西桂園は桂離宮をモデルにしているのですさかいに、園内唯一の灯籠は、雪見よりも織部がふさわしいのではないかと思うてますのや」 「一度、宗主さんに訊《き》いてみます。うちは個人的には、織部を置くのは悪くないと思いますが」  雪見は灯籠としてはずんぐり型だが、織部はすらりとした長身型だ。池に浸すのなら、背の高い織部のほうが適役かもしれない。ただ織部灯籠はキリシタン灯籠と別名が付くくらい西洋の色合いを持っている。華道の家元の庭に、ミスマッチとならないかどうか、宗主の意見を訊いておく必要がある。 「ぜひよろしくお願いします」  雅空は頭を下げた。  午前中の仕事が終わったので、桜子は宗主に灯籠のことを話すために、屋敷のほうに足を向けた。  宗主室から千代が出てくるのが見えた。 「あの、すみません。ちょっとよろしいでしょうか」  桜子は千代に取り次ぎを頼もうとした。  千代は桜子を見て、小さく「あっ」と言った。そしてすぐに宗主室に入り直す。  少し妙な具合だ。  すぐに道頼が姿を見せる。 「松原さん。今、少しよろしいかな。妻にあなたを捜してくるように頼んでいたところだったのです」  それで千代が小さく「あっ」と驚いたのだ。 「はい。あの、むしろ、うちのほうが宗主さんに用事があったのですけれど」 「どんな用事でしょうか」 「雅空さんから、灯籠のデザインを雪見から織部に替えたいと要望があったのですが」 「織部……北野天満宮にある灯籠ですな」 「はい、そうです」  菅原道真《すがわらのみちざね》を祀《まつ》る北野天満宮にも、織部灯籠がある。その灯籠は、桂離宮を造営した智仁親王の妻である常照院《じようしよういん》によって寄進されたと言われている。 「織部灯籠は、キリシタン灯籠という別称もありますが、華道の庭園に差し支えないでしょうか」  常照院はキリシタン大名だった京極高知《きようごくたかとも》の娘だ。 「かまいません。桂山流は、そんなに度量の狭いものではないのですから」  道頼は快諾した。 「では、雅空さんと相談して、デザインや大きさを決めさせていただきます」 「そうしてください」 「あの、宗主さんのほうのうちへの御用件は?」 「実は、あなたに、立ち会い人になってもらいたいのです」 「立ち会い人、ですか」 「これから、私は妻の千代に、代理口伝《だいりくでん》をします。その事実があったということの証人になってもらいたいわけです」 「代理口伝というのは、どんなものなのですか」 「これは失礼——説明をしておかなくてはわかりませんな。桂山流には、男子一子相伝で次の宗主に奥義を伝えるというルールがあります。それは、口承によらなくてはならないのです。もし書いたもので奥義を伝えることにすると、誰かに読まれたり、盗まれたりする恐れがないとは言い切れないわけですから」  桜子たち庭師の世界でも、口承は無縁ではない。習うより慣れろの世界だけに、書物で勉強するよりも、師から弟子に口で教えられることが大いに役に立つ。ただし、一子相伝という閉鎖的なことは、ほとんどない。むしろ仲の良い同業者の間では、知識を教え合うことも少なくない。芸術というより、職人の技という性格が強いからかもしれない。それに、茶道や華道のように、一般の人に教えて免状を与え、月謝をもらうというものではない。 「私の次に宗主になる人間は、一人息子の翼です。翼を一人前の宗主に育てて、口承していくことが私の大事な使命の一つとなります。しかし、翼は、まだ六歳です。とても難しい奥義を理解できるものではありません。そんなときのために、桂山流では代理口伝という便法が認められています。いったん、別の人間に口承して、その人間から翼に伝えてもらうわけです。その人間として、私は妻の千代を指名したいのです。松原さん、あなたには私が妻を指名したことの証人になってほしい。証人としては、桂家に関係のない第三者のほうが、ふさわしいのです。すみませんが、お願いできますね」 「それは、かまいませんけど」  桜子は今一つ呑《の》み込めない。道頼が高齢者ならわからないでもないが、まだ三十一歳の若さだ。口伝のことを気にしているのはおかしいのではないか。 「実は……こんなことを思い立ったのは、きょうになってからのことなのです」  道頼は、桜子の疑問を見透かしたかのように言った。 「政之の死が、そのきっかけになりました。もしも私が今突然死ぬことになったなら、翼に口承をすることはできなくなります。そうなったなら、桂山流は私の代で絶えてしまうことになってしまいます」  道頼の気持ちは、わからないこともない。だが、そんなことを気にしていたなら、すべての宗主が、子供が小さい間は不測の事態に備えて代理口伝をしなくてはならないことになってしまうのではないか。 「身内の恥をさらすことになるが、あなたには話しておきましょう」  道頼は自分を納得させるかのように、頷《うなず》いた。 「悟二朗は、私が政之を突き落として殺したと考えています。彼だけでなく、喜子も、タケルも、弓恵も、私が政之を殺したと疑っています」  道頼は、政之のグループの人間を呼び捨てで言った。 「えっ、そんな。あれは自殺だったのでしょう」  警察が自殺と処理しつつあることは、竜彦に確認したばかりだ。 「彼らはそうは思っていません。たとえ、自殺だとしても、私が政之を精神的に追いつめ、自殺に駆り立てたと恨んでいます」 「はあ」 「あの連中との対立は今に始まったわけじゃありません。大宗主が健在なときは向こうもおとなしくしていたのですが、私が新宗主になったとたんに、有形無形の妨害が始まりました」 「…………」 「だから、何らかの形で、報復が来てもおかしくはないのです」 「けど、身内やないのですか」  道頼と、政之のグループとは血の繋《つな》がりがある。 「身内だからこそ、恐ろしい……」  道頼は、キッと睨《にら》むような目になった。桜子はその目に圧倒されそうな思いがした。  確かに桂山流宗主の座は、社会的地位が高いだけでなく、収入も大きい。箱書を一筆したためるだけで百万円が献上される。免状料を通じて、全国から納められる額はそれ以上の数字だろう。  その座を得られるなら、手段を選ばないという人間がいてもおかしくはないかもしれない。しかも、政之はいったんは英太郎の養子として、次期宗主になることが内定していた男だ。 「人間は、自分にないものを欲しがり、妬《ねた》むというやっかいな動物です。隣の芝生は青く見えるのです」  道頼は少しわけのわからないことを言った。政之たちが宗主の地位を妬むというのは理解できる。だがそれがどうして隣の芝生なのだ。   9 竹林の中で  景介は、洛西桂園に向かってミニバイクを走らせた。劇の稽古が終わるのが、予定よりも三十分ほど遅くなってしまった。急がないと、約束していた午後二時に間に合いそうにない。ゆっくり昼ごはんを食べている時間がなくなり、やむなく途中のコンビニでおにぎりとイナリずしとペットボトルのお茶を買って、背中のリュックに入れてきた。 (なんで、こんなに忙しいのかな)  貧乏暇なしという言葉があるが、景介は毎日あわただしい生活を送っている。舞台の公演が始まったなら、もっと忙しくなる。それなのに、食べていくのがやっとだ。電気代が払えなくて送電がストップされてしまったことだって二度もある。 (じっとしていてもお金が入ってくる家元とは、全然違う人生だよな)  けれども、景介には夢がある。いつの日か、満員の客席の舞台で拍手を浴びながら主役を演じられる日が来るかもしれない。その思いがあるから、今を我慢できる。  洛西桂園の前でミニバイクを降りる。停める場所には気を遣うように、といつも桜子から注意されている。不粋な作業車が目立つところに置かれていることで、せっかくの門や塀の景観がそこなわれてしまうこともあるからだ。桜子の軽トラックはもちろん門の前には停まっていない。たとえ急いでいても、桜子の軽トラックの場所を探して、その横にバイクを置く必要がある。  桜子の軽トラックは、洛西桂園の横にある竹林の入り口に遠慮がちに停めてあった。その手前には、白いセダンが停車してある。景介はその間にミニバイクを置いて、リュックを担いで、洛西桂園に足を急がせようとした。  そのとき、屋敷の中から、女性が二人出てきた。ちょっと諍《いさか》いのような尖《とが》ったやりとりをしている。言い合う二人の女性は、景介の存在には気づいていない。 「ですから、知りません。お見かけもしていません。どうかお引き取りください」  内弟子の久保井杏奈だ。モデルのようなスタイルの良さをタイトスカートのスーツに包んでいる。きょうも杏奈は素顔だが、それがかえって清楚《せいそ》な美しさを引き立てている。 「おかしいわよ。こっちに立ち寄ってくると言っていたのよ」  杏奈に食い下がっている厚化粧の女性には、見覚えがある。猫の墓の写真を撮った景介は、顎髯《あごひげ》の男に叱られた。そのとき、一緒にいた高慢そうな女だ。あのときは黄色いワンピースだったが、きょうは黄色のブラウスだ。よくよく黄色が好きなようだ。顎髯の男は、桂政之だった。どうやら、その妻のようだ。 「失礼ながら、お聞き間違いじゃありませんか」 「そんなことはないわ」 「でも、来られてないものは来られてないと申し上げるほかはありません」 「大事な通夜の日なのに、お義父《とう》さんが戻ってこないなんて、変じゃないの」  政之の通夜が、今夜とりおこなわれるようだ。 「そうおっしゃられても」 「だったらせめて、屋敷の中の部屋を一つずつ見せてよ」 「それはできません。宗主の御意向ですから」 「やはり隠しているとしか思えないわ。かわいそうに、お義父さんは、どこかに閉じ込められているのね」 「それは勘繰りです。悟二朗さんはお越しになっていません。お見かけもしていません」  どうやら杏奈と政之の妻は、悟二朗がこの屋敷を訪れたかどうかで言い争っている様子だ。 「おかしいわ」 「嘘は申していません」  二人はしばらく睨み合いの対峙《たいじ》を続けたが、結局は杏奈のほうが勝ちをおさめた。 「内弟子のくせに」  政之の妻は捨てゼリフを発しながら、横を向いた。 「ご足労さまでした」  杏奈は頭を下げる。  政之の妻はあきらめ切れない様子で、周囲を見回す。  景介と政之の妻の目が合った。  どんな対応をしたらいいか迷ったが、政之の妻とは一度顔を合わせているので、とにかく黙礼をした。だが、政之の妻はまるで無視するかのような知らんふりをして横を通り過ぎて、洛西桂園の中に入っていく。杏奈は、そんな景介に軽く会釈をして、踵《きびす》を返して屋敷の中に入っていった。 「あなた、本当に知らないの」  政之の妻である喜子は、モクレンを移し植えるために穴を掘る桜子に詰め寄っていた。 「はい。お見かけもしていません」  桜子はタオルで汗を拭《ぬぐ》いながら、答える。 「あなた、きょう屋敷のほうへ行った?」 「ええ。二回ほど」 「何か妙な様子はなかったの?」 「そんなことは」  桜子はかぶりを振る。 「書院とかを見せてもらうわよ。お義父さんは、こちらに行くって言い残して、けさ出かけたのだから」 「はあ。けど、けさなら、あまりにも時間が経ち過ぎていませんか」 「だから、おかしいと思って捜しに来たのよ。今まで何の連絡もないなんて……どこかに幽閉されているかもしれないわ」 「幽閉? なんでまた、そんなことを」 「通夜に出さないためよ。たたりという作り話を増幅する効果を狙っているのよ」 「たたりは作り話なんですか」 「目撃者の農家が聞いたというだけじゃないの。農家を買収すれば、簡単よ」  喜子はそう言い捨てて、歩き出した。 「先輩。遅くなりました」  景介は、喜子が去ったのを確認してから桜子のところへ近づいた。 「景介君。今の聞いていた?」 「はい。政之の奥さんですよね。名前は知りませんけど」  景介は作業用手袋をはめる。 「喜子さんよ。あの調子なら、『うちの夫は殺された』と言い出しかねへんわね」 「どうしてですか」 「政之さんが保津川に向かって飛び降りたのを目撃したのは、農家の人だけやもの」 「そうか」  たたりという叫び声が作り話だと疑うなら、目撃談もあやしいということになるだろう。 「ま、そんなことより仕事をしなきゃ」 「はい」  二人は力を合わせて、モクレンを根ごと引き抜いて、移植場所まで運んだ。そして肥料と水を与える。これをきちんとやっておかないと、移し替えは失敗して枯らすことになりかねない。  しばらくして、喜子が黙って洛西桂園の出口のほうに向かうのが見えた。硬い表情からすると、義父の悟二朗は見つかっていないようだ。それに、もし見つかっていたなら、一緒に悟二朗がいないとおかしい。  桜子は喜子の姿に気づいているはずだが、何も言わずに懸命にモクレンに水をやる。景介も黙っている。  そのあと数分が経過して、モクレンを引き抜いた場所を整地しているときだった。 「きゃーっ」  かん高い女の悲鳴が聞こえてきた。 「だ、誰か、来てっ」  悲鳴は塀の向こうの竹林のほうから、聞こえてくる。 「先輩」 「行きましょう」  桜子は手にしていた熊手を放り投げて、走り出した。景介もそれに続く。  信じられない光景だった。  竹林の中で、黄色いブラウスを着た喜子が腰を抜かし、わなわなと震えていた。スカートから白い太股《ふともも》があらわになっているが、隠している余裕などない。  喜子は恐怖からか、涙を流していた。その血走った目の視線の先は、一本の若竹に向けられていた。  その竹には、ロープで首を吊った男がぶら下がっていた。  鼻水を垂らし、だらりと舌を出した顔は、まったく生気がない。 「悟二朗さん!」  桜子は小さく叫んだ。  喜子が捜していた悟二朗は、彼女によって、首吊り死体として発見されることになったのだ。  悟二朗の足元には、桂山流の会報が三十センチほどの高さに積み上げられていた。政之が編集長となっていた会報だ。その会報を踏台にして、首を吊ったということだろうか。 「大丈夫ですか」  桜子は、喜子に駆け寄って、かかえ起こす。 「お義父さんの車が竹林の入り口に停まっていたから、もしやと思ってここに入ったら、こんなことに」  喜子は涙を拭おうともせず、顔を歪《ゆが》めた。 「夫の次は、お義父さんが……あ、あうう」  喜子は震えを止めない。 「しっかりしてください」  桜子はそう言ったが、喜子は桜子にかかえられたまま目を閉じて、失神した。  第二部 たたりの光景   10 厚いベール 「こんなところで、君と会うとは思わなかったな」  所轄署の小さな部屋で、竜彦はちょっときまりが悪そうに桜子と相対した。 「しかたあらへんわ。うちは第一発見者なんやから」 「正確には、第一発見者じゃないよ。第二だ」 「せやね」  わずかな時間差だが、先に喜子が悟二朗の遺体を発見して、悲鳴を上げている。 「喜子さんは?」  竹林で失神した喜子は、景介がコンビニで買ってきていたペットボトルのお茶を口に含ませたことで、意識を取り戻していた。 「隣の部屋で、別の検事の事情聴取を受けている」 「検事さんが二人もお出ましなの」  警察による事情聴取を簡単に受けたあと、すぐに検察の登場となった。 「華道の名門から、二人目の死者が出たからね」 「悟二朗さんは自殺やったん?」  外形的には首吊り自殺だった。 「遺体解剖の結果を待たないと、断言できない。それと、こうして関係者に事情聴取をしてからだよ」 「何でも知っていることは答えるわよ」  喜子が悲鳴を上げるまでのことはすでに話した。 「桂喜子は本気で悟二朗を捜していた、というふうに見えたかな」 「どういう意味なん」 「つまり、喜子が演じていたって可能性を考えている。本当は、すでに死んでいたのを知っていながら、わざと捜すふりをしていたということはないかって」 「それって、悟二朗さんが殺されて、その犯人が喜子さんだってこと?」 「あくまでその可能性がないかどうかを洗うってことだよ。検察は、あらゆる線を考えて、その一つ一つをつぶしていくのが基本的なやりかただから」 「あれは演技というふうには見えへんかったんやけど」 「けど、って?」 「悟二朗さんが訪ねてきているはずだと喜子さんが断じていたのは、ちょっと理解できひんかったわ。通夜を控えて忙しい悟二朗さんが嵐山からやって来る理由がわからへんし、もちろんその姿も見かけていないし」 「確かに、それは引っかかるよな」  竜彦は腕を組んだ。「現場の様子で理解しがたいのは、会報が積んであったことだよ」 「踏台にしていた、ということやないの」 「普通、そんなものを踏台にするかな。もっとがっしりしたものを選ぶだろう」 「せやね。けど、ほかに適当なものがなかったとしたら」 「あるいは、何かのメッセージかもしれないが」 「息子の政之さんが会報の編集長やったから、その意味があるのかしら」 「深読みしたなら、政之のあとを追って自殺をするというメッセージだとも考えられるけれど、それくらいならどうして遺書を残さなかったんだという疑問が出てくる」 「あと追い自殺か」  好きな恋人を亡くしたというのなら、後追い自殺ということも考えられるが……。 「自殺の動機としては、弱いよ」 「あの会報はどうやって運んだのかしら」  積み上げた高さは、三、四十センチはあった。 「悟二朗が積んだのだとしたら、彼のセダンが停めてあったから、それに積んできたのだろうけど……。それで、車のことなんだけど、君が軽トラックを停めたのはいつごろのこと?」 「朝の八時過ぎやわ」 「そのときはセダンはなかったんだね」 「ええ。それは間違いあらへんわ」  そして、景介がバイクを停めたときには、セダンはあった。  桜子が軽トラックを停めたのが午前八時半ごろで、景介がやってきたのが午後二時前だ。  悟二朗のセダンはその間に、停められたことになる。 「それにしても、政之さんと悟二朗さんという桂家の人間が相次いで亡くなるなんて、ショックやわ」 「外形的には、どちらも飛び降り自殺と首吊り自殺というふうに見えるけど、背後に何かあるような気がするんだな」 「何かって?」 「それがわかれば苦労はないさ。京都の格式のある旧家って、ベールが厚いからね」 「せやね。京都に住んでいても、庶民には、白|足袋《たび》の人たちの生活はなかなか窺《うかが》い知ることができひんものね」 「おれの母親が華道の世界は弟子が減っているので大変じゃないかって言っている。おれの母親の娘時代には、みんなお花とかお茶を習っていたというんだ。ところが、今は英会話とかジャズダンスとかは習っても、お花をやる人は少ないって……桜子さんもそうなんじゃないの」 「そのとおりやわ」  庭師になったとき、花のことは知っておいたほうがいいと華道を習うことを考えたことがあった。けれども、それを実行することはなかった。理由は三つあった。まず華道の師匠さんのところは敷居が高くて、紹介でもない限り、なかなか入りにくいということだ。カルチャーセンターならパンフレットを見たうえで入学金を払えばそれでいいのだが、昔ながらの華道はなかなかそうはいかない。飛び込みではなかなか入れないし、かといって誰かに紹介してもらうのは面倒だし、やめにくくなる。二つ目の理由は、年功序列があると思われることだ。古くからのお弟子さんが威張っている姿が想像できたし、古いしきたりや人間関係を強いられそうな気がした。第三に、稽古中はじっと黙って花を生けなくてはならないことが、桜子には苦痛に思えた。お金を払うのだから、もっと和気あいあいと楽しんでやりたい。  結局、桜子は華道を習うのではなく、大学の造園学の講義を聴講することを選んだ。 「弟子が減っているということは、それだけ免状料などの収入が減るということになる。桂山流は、将来的にはけっして安泰とは言い切れないんじゃないかな」  桜子の脳裏に、お箱書を積極的に書こうとする宗主の道頼の姿が浮かんだ。そして、道頼が「隣の芝生は青い」と口にしたことを思い出した。 「それが、二人の人間の死の背景になっているということなのかしら」 「そいつはわからないけれど」  収入が減っているとなると、あれだけの庭園や屋敷を維持していくのも苦しいかもしれない。もっとも、京都の人間はそういう自分のマイナスの姿を正直に見せようとしない。「貧乏にならはった」と陰口を叩《たた》かれるのが嫌なのだ。  洛西桂園の改修を依頼してきた道頼は、「予算的には、そんなにゆとりがないわけではありません」と言いながらも、統一性を保ちたいことを理由に「できるだけ、あなた一人で時間をかけてやってください」と要請した。予算のことは、京都人独特の体面繕いかもしれない。だとすると、本音は、ゆとりがないからそんなに何人も職人を連れてきてもらっては困るということになる。  悟二朗が死んだことで、予定されていた政之の通夜は延期されることになった。  喪主になるはずだった喜子は、まだ事情聴取から帰ってこない。  通夜の会場となる予定だった葬祭センターでは、弓恵とタケルが、知らずにやってきた来訪者への対応をすることになった。 「それは、とんでもないことになりましたな」  事情を聞かされた来訪者は一様に沈痛な顔になった。 「はい。日を改めまして合同で、と考えております」  わずか二日の間に、悟二朗と政之という親子が亡くなった。もしも英太郎が富士乃という愛人を作らず、そして富士乃が男児を出産しなければ、宗主の座は悟二朗もしくは政之に受け継がれていたに違いなかった。もしそうなっていたなら、こんな葬祭センターではなく、もっと大きな寺院を借り切っての通夜や葬儀になったに違いない。  ひとしきり来訪者が帰ったあと、タケルは道頼のところへ電話をかけた。 「あんたの近親者が二人も死んだんだ。今度こそ、合同の形を採って桂山流として公葬にしたらどうなんだ」  通夜を延ばした理由のもう一つはそこにあった。 「それは、考えていない。宗主の座にあった者に限って、公葬にする」  道頼はすぐさま断った。 「そんな規定はないはずだ。過去には、宗主以外でも公葬になっている例はある」 「確か過去に例はあるが、いずれも宗主が率先して認めた場合だ。私は、そのつもりはない」 「それで、はたして大宗主は納得するかね。大宗主の弟や甥《おい》と、大宗主の妾腹《しようふく》の子と、どちらが正統かね」 「大宗主は、私を宗主に指名なさった。それで、全権が私に委ねられた。公葬云々の権限を含めて」  道頼は妥協の余地なく、公葬を拒否した。 「あまりにも、われわれをないがしろにしていないかね。あんたにもしものことがあったなら、次の宗主はわずか六歳だ。われわれのサポートなしには、何もできないと思うがね」  道頼は一瞬黙った。 「もしものことがあったら……ということは、私の命を狙っているつもりなのか」 「そこまでは言っていないが」 「いや。私がいなくなれば、とあなたたちは思っているはずだ」 「不吉なことが、二度まで起きた。三度目がないという保証はどこにもない」 「やはり、そうなのか」  道頼はかすかに声を震わせた。   11 定型的縊死  翌日、桂悟二朗の遺体解剖の報告が出て、竜彦のところへ回ってきた。  死因は、頸部《けいぶ》圧搾による酸欠死であった。首の索溝は、前の上頸部から後方に斜めに走っていた。そして首の後ろには、索溝は見られなかった。これは、首を吊って踏台を自らはずしたとき——すなわち自殺をしたときに多く見受けられる特徴である。もしも誰かに首にロープを巻かれて絞め殺されたのなら、索溝はほぼ真横に首輪状につき、首吊り自殺であれば体重がかかるはずの部分に溝が出ていないことが多い。また他殺のときは、相手に抵抗した形跡が爪や指先に見られることが少なくない。極端なときには相手の皮膚の一部や血液が付着している場合もあるが、悟二朗の爪や指先はきれいなままであった。  さらに悟二朗の顔面には、鬱血《うつけつ》がほとんどなかった。もしも、何者かによって絞殺された場合は、顔面が紫色に鬱血するという特徴を持つ。これは、次のような理由による。首を通って脳に血液を送る動脈には、頸動脈と椎骨《ついこつ》動脈の二本がある。他殺で、首を絞められた場合は、頸動脈は塞《ふさ》がれても、骨に守られた椎骨動脈は塞がれず、脳は酸欠にはならない。死因は、気道を閉ざされたことによる窒息死になることが多い。すなわち、絞殺のときは、椎骨動脈が生きているために、血液はなおも頭部に送られて、顔は鬱血して紫色になるわけである。  悟二朗の死体は、足が地面についてないいわゆる宙吊りの状態であり、これは定型的|縊死《いし》と呼ばれる。定型的縊死の場合は、首が斜め上方から強く引っ張られるため、頸動脈と椎骨動脈の両方がいっぺんに塞がれ、頭部に血液が送られることはなく、鬱血することはほとんどないわけである。 (こいつは、自殺という可能性が高いな)  解剖報告書を読んだ竜彦は、心の中でそうつぶやいた。  ただ、わからないのが、自殺の動機だ。  遺書はなかったし、息子の嫁である喜子は「絶対に自殺なんかありえません」と言い切っている。  死に場所として竹林を選んだという理由もはっきりしない。 (動機の見えない自殺というのも多いけれど)  自殺者は普通の精神状態でないこともよくある。醜い死体を人前にさらす格好悪さを考える冷静さがあるならば、初めから自殺などしないはずだ。 (息子を失ったことが、精神的に悟二朗をまいらせることになったのか)  政之に続いて悟二朗までもが命を絶ったのは�たたり�のせいだという非科学的な思考は、検事としてはしたくはなかった。  桜子は、竹林亭への登り道にある楓《かえで》の移し替え作業の準備をするために、足を運んだ。移し替えといっても、道の右側にあるものを左側に持ってくるだけだ。この楓は見事な枝ぶりで、秋になれば燃えるような紅葉になるに違いない。それだからこそ、桜子は移し替えをしようと思ったのだ。  木というものは不思議なもので、一つのところにじっとしているよりも、五、六年で移し替えるほうが立派になることが多い。移し替えによって根切りをするから、そこからまた新しい細根を出して、木に勢いがつくわけだ。  昔は模様替えといって、たいていのお屋敷では庭の木をいじったものだ。それはただ単に住人の気分を新しくするためではなく、木のためでもあった。  常識には反するかもしれないが、大事な木はむしろ動かしたほうがいい。二十年もそのままにしておくと、根が張りすぎて容易に移し替えはできないから、五、六年ごとにするのが望ましい。  ここらあたりは、人間にも通じることかもしれない。  桜子は足を止めた。  竹林亭の登り道の途中で、膝《ひざ》をついた一人の女性が胸の前で十字を切り、手を合わせていた。  富士乃だった。  桜子は富士乃とはまだ言葉を交わしたことがなかった。  富士乃は、桜子の息づかいに気づいたかのように顔を向けると、かすかに微笑んで頭を下げた。色白で整った顔だ。三十一歳の道頼の母親だから、五十代のはずだが、とてもそうは思えないほどの艶《つや》っぽさがある。 「庭師のおかたはんどすね。えらいお世話になっとりますなあ」  富士乃は、きれいな京言葉を使う。 「こちらこそ」 「いろいろとややこしいことが起きてしもうて、嫌な思いをしてはるのやないですか」 「いえ、そんなことは」 「それと、代理口伝の証人になってくださったと息子から聞きました」 「はい」 「ご無理申し上げて、ほんまにすみません」  すっかり母親の表情だ。桜子は、保護者会で頭を下げられた教師になった気分だ。 「代理口伝まで心配されへんでもと、宗主さんには申し上げたのですが」  あのときは、政之が亡くなった直後のことだった。  そのあと、悟二朗が死んでいる。しかも、桜子は悟二朗の死体をまのあたりにすることになった。 「取り越し苦労やとお思いかもしれませんけど、もう一人の息子を幼くしてなくしてしまったあたくしには、いろんな覚悟をしておいたほうがむしろええのではないかという気がしています」  富士乃は足元にある五段重ねの小さな石を見つめた。そこに、鶴雄の遺髪が、愛猫の骨とともに眠っている。 「あのう、すみません」  背後から、若い女性の声がした。振り返ると、久保井杏奈が立っていた。 「宗主がお呼びなのですが」 「うちを、ですか」  桜子は自分の鼻を指さした。 「はい」   12 引き算の美  襖《ふすま》が開けられた宗主室で、道頼は花を生けていた。  二本の青竹の間に、山野草であるショウジョウバカマの赤花と白花を、慎重な手つきで剣山に刺していく。桜子は声をかけるのをためらった。道頼の頬は、半病人のように青ざめ、汗がひとすじ流れている。 「桜子さん」  道頼は顔を上げずに、声を出した。桜子がやってきたのを、きちんと感じ取っていた。 「日本の庭園の考えかたは引き算にあると思うのですが、違いますか」  道頼は手を休めようとしない。 「引き算、ですか」 「ええ。主役になる木が決まっていて、他はそれを引き立てるためにある。そのために剪定《せんてい》もするし、ときには間引きをするわけです」 「そういうことも言えるかもしれません。ただ、あくまでも日本の庭園は自然にあるがままの変形を大事にします。木々にデコボコがあってもかまわないのです。西洋式の庭園が、幾何学的な整地式であるのとは違います。むしろ整地式のほうが、人の手を加えることが多く、間引きとかも必要だと思うのですが」 「なるほど、そうかもしれませんね」  道頼は、赤花の茎を鋏《はさみ》で切った。そして、剣山に刺していく。 「華道の世界でも、自然にあるよりもこうして生けるほうが花が長持ちすることが理想です。切ってしまうことで花の寿命が短くなるなら、それは人間の傲慢《ごうまん》と言われてもしかたがありません」  道頼はようやく納得したかのように、赤花から手を離した。  それからようやく、額にうっすらと浮かんだ汗を拭《ぬぐ》う。 「あしたは土曜日だけど、庭園改修作業は休みですか」 「いいえ、週休二日制の庭師なんて、めったにいません。あさっての日曜日は休みをいただきますが」 「本当に御苦労様です」  きょうの道頼は、桜子に対する言葉づかいが丁寧だ。 「いえ、そんな」 「前に代理口伝の証人になっていただくことを、お願いしましたね」 「ええ」 「その旨を一筆書いておいてもらえますか」 「はあ、かまいませんが、どんなふうにすればいいのですか」 「こちらに私が書いたものがありますので、署名をいただければ」  道頼は半紙を取り出した。かなりの達筆で、次のように書かれていた。 �第十七代宗主である桂道頼に不測の事態があったときに備えて、第十八代宗主予定者である桂翼に口承するための、代理口伝を行なう。  その口伝者として、桂千代を指名する。  右のことが行なわれたことを、証明する� 「末尾に、署名をしてくださいますか。その前に、もしも疑問点があったならなんなりと」 「疑問点というほどのものやないのですけど、二、三質問をさせてください」  桜子は半紙を見ながら尋ねた。 「このような書式は決まっているのですか」 「ええ。記録では、過去にも代理口伝は三度ばかり行なわれていますので……それだけ、宗主の座をめぐる争いは絶えないということでしょうか」  道頼はわずかに苦笑を洩《も》らした。 「次の宗主は翼さんにもう決まっているのやないのですか」  ここにはあくまでも、宗主予定者とある。 「宗主になるには、二つの行為が必要になります。一つは前宗主からの指名です。この指名は、前宗主が生前にしてもよいし、遺言によってなしてもいいのです。指名後に、前宗主が引退してもいいし、自分が死ぬまでは継承はさせないということも可能です。もう一つ必要な行為は、奥義について口伝を受けることです」 「宗主継承者の順番というのは、決まっているのじゃないのですか」 「いいえ、決まっていません。それだけに、昔の天皇制のように継承をめぐっての争いの原因にもなるのですが……ただ、厳密に決めておくと、かえって困ることにもなります。もし厳密だったなら、私のように愛人の子が受け継ぐということは無理だったでしょう。結果的に、次の宗主になる者がいなくなるということになりかねません」  確かにあまり四角四面にやると、お家断絶という確率が高くなるだろう。 「あの、つまらないことですが、宗主さんの姓は必ず桂なのですか」  道頼は、自らが認めるように�愛人の子�だ。すなわち、母親は富士乃だが、彼女は愛人である以上は、桂姓ではない。とすると、その子である道頼も桂姓ではないのではないか。 「私の母親は、藤高《ふじたか》富士乃といいます。したがって、私も認知をすぐに受けたものの、生まれたときは藤高道頼です。ところが、大宗主である英太郎は、生前に私を次期宗主に指名しました。桂山流の家元が桂姓でないのはこれまでに前例がないので、家庭裁判所の許可を得て、私は桂姓となりました」  先代宗主の英太郎は、まず八橋雅空を養子にした。そのあとこの養子縁組は解消した。甥《おい》の政之が次に養子となったが、自分の婚外子である道頼ができて、さらにその道頼が男児の翼をもうけたあと、次期宗主に道頼を指名して、道頼は改姓した。  桂家一族の戸籍は、かなり複雑なものになっているはずだ。  それもこれも、後継者を必要とする家元という特殊性と、姓という奇妙なものがなせる結果かもしれない。姓というものは、実態がほとんどないくせに、その意味合いはけっして低くない。姓は変わらないが妻の両親と入り婿的に同居するスタイルが増えたり、夫婦別姓制度が検討されているのも、現代になおも姓が生きているからだろう。 「もう一つ、失礼なことを質問させてください」  桜子の頭には、竜彦と話していた華道の衰退のことが頭にあった。 「宗主さんがこうしてお子さんに奥義を伝えようとしてはることに水を差すようですが、翼さんの代になったら華道の有り様は今と変わっているのやないですか」  道頼はかすかに頷《うなず》いた。 「確かに大宗主の時代のような隆盛はないかもしれません。あのときは、高度成長の豊かさと、ディスカバージャパンブームという二つの追い風がありましたからね。でも、華道というものがなくなることはありません。書道だって能だって尺八だって、二十一世紀になってもそれを習おうという人が絶えるということはないでしょう。華道はたとえ二十二世紀になっても、きっと残ります」 「けど、お弟子さんの数は少なくなるんやないですか」 「ええ。でも、弟子の数は問題じゃないのです。あなたも京都人ならわかると思いますが、由緒ある流派の家元という地位が大切なのです。私は、それを息子に継がせたいと思っています。親バカかもしれませんけれど」 「わかる気はします。うちの父だって、松原造園を受け継ぐと言ったときは、喜びましたから」  とりわけ京都の場合は、造園業の家は代々続いているところが少なくない。顧客の家も歴史があるところだと、先祖代々出入りの造園業者は決まっていて、そこに信頼関係が何代にもわたって積み重ねられている。 「他に訊《き》きたいことはありますか」 「いえ」  桜子は、筆を借りて署名をした。毛筆には、まったく自信がない。道頼が達筆なだけに、よけいに気恥ずかしさを感じてしまう。 「あなたのような第三者がいらして、本当に助かりました」 「下市さんとか、久保井さんのほうが、事情を御存知なので適任ではなかったのですか」 「いや、彼らは、一族ではないというだけで、なかば身内のようなものですから、証人としてはふさわしくありません」  道頼は軽く首を振った。  桜子は半紙を道頼に手渡した。 「これが使われないほうが、いいですね」  使われるときは、道頼の懸念が当たってしまったときだ。すなわち、道頼が第三の死者となる…… 「実は、どうも不吉な予感がしてならないのです」  道頼は横を向いて、小さく息を吐いた。 「そんなことは」 「不慮のことが相次ぐと、そして次はもしかしたら自分では、という不安がよぎってしまいます」 「せやけど、政之さんは自分から身を投げた様子が目撃されていますし、悟二朗さんもうちが見た限りは自殺やと思えます」 「それは……わかりません。もしも二つとも、他殺だとしたなら」 「考え過ぎやないですか」 「かもしれません。けど、私にはもしかしたらという思いがあります」 「えっ。それは、犯人の見当がついているという意味ですか」 「いいえ、そういうわけではないのですけど」  道頼はしばらく桜子の顔を見ていたが、やがてわれに返ったように、生けたばかりの花を自分のほうに引き寄せた。 「あなたは来られたばかりだから、この家のことをよく御存知ないでしょうが、大宗主も、私にとっては兄にあたる鶴雄も、あるいは殺害されたのかもしれません」 「…………」  英太郎のことは、竜彦に調べてもらった。鶴雄のことはまだ事情を知らないが。 「大宗主は高齢でした。兄の鶴雄は逆に二歳と幼かった。どちらの場合も、病気と判断されてしまうことがあります。明確な刺殺や絞殺でない場合は、真相はなかなかわかりにくいこともあるのじゃないでしょうか」 「鶴雄さんはどんなふうな亡くなりかたを?」 「母から聞いた話では、原因不明の高熱と引きつけが続いたそうです」 「けど、それだけでは犯罪かどうかはわかりようがあらへんのやないですか」 「そうなります。でも、もしも殺されたとしたなら、動機は明確です。そして、犯人もはっきりしています。奴らは、自分が得られるはずだった宗主という座を奪うことになる兄の存在が憎く、邪魔だったのです」 「はあ」 「大宗主の場合は、奴らを追い出すことを決意したことが、殺される原因となったのかもしれません」 「追い出す?」 「大宗主は、亡くなる半年前に私を正式に次期宗主に指名しました。それまではじっと沈黙を続け、私が宗主としての技量があるかどうかを見極めていたのだと思います。新宗主になることになった私にとって、奴らは目の上のタンコブ的な存在です。いろいろ煩わされることは予想できました。そうなったなら、桂山流の運営がスムーズにいかず、また内紛となれば家名に傷がつくことも考えられました。大宗主は、私のためでなく、桂山流のために奴らを追放しようとしたのです」 「追放の理由はあったのですか」 「すぐには見つかりませんでした。その間に、奴らが先手を打ったと考えると、辻褄《つじつま》が合います」 「英太郎さんは、そのことを警戒してはらへんかったのですか」 「よくある王様の独善というやつでしょう。大宗主は警戒を怠っていた気がします」  景介は、桜子を探していた。洲浜の石の汚れを取ったあと、楓の移し替えをすると聞いていた。景介は洲浜の石の汚れを取り終えたので、楓の木のところへ向かったのだが、桜子の姿が見えない。 (もしかして、屋敷のほうかな)  景介は屋敷に向かって歩き出した。そして足を止めた。  屋敷の門のところで、二人の男女が手を取り合っていた。 「宗主に見つかったら、まずいわ」 「大丈夫さ」  積極的な男は、師範総長の下市だ。そして女のほうは、後ろ向きだが、あのプロポーションの良さはどうやら久保井杏奈のようだ。  下市は杏奈をぐいと抱きしめた。杏奈の美しい横顔がちらりと見えた。  景介は軽いジェラシーを感じた。 「宗主が代理口伝をしているのを知っているか」 「そうなの」 「いい加減なものだと思わないか。大げさに奥義といっても、その内容は代理口伝で口承できるほどの簡単なものなんだぞ」 「でも」 「何が奥義なのか、その中身を誰も知らないじゃないか。ただそれが宗主以外には明かされないというだけで、秘伝の奥義となる。実態のない煙みたいなもんだ」 「師範総長のあなたが、そんなことを言っていいの」 「おれだって、桂家に生まれていれば、宗主になれていたんだ。全国から免状料を吸い上げ、箱書をちょいと書くだけで濡《ぬ》れ手に粟《あわ》の収入を得られたんだ。こんなバカなことはない。人間は平等で、家柄によって差別されないって、日本国憲法に定めてあるんじゃなかったのか」 「そこまで言わなくても」 「新葵流《しんあおいりゆう》のような斬新《ざんしん》さが、桂山流にはないんだ」  東京出身の景介は、新葵流の名前を聞いたことがある。新興の勢力のようだが、前衛的な生け花の展覧会を、デパートでよく開いている。 「新葵流のことは、こんな場所で口にしちゃいけないわ」  杏奈はたしなめるような言い方をした。そして、自分から下市の唇を求めた。   13 ある仮説  タケルは、農家の木村靖男のところを訪れていた。木村は、政之の転落事件の唯一の目撃者だ。 「本当に、政之が落ちていくところを見たのか」 「はい。びっくりして、あわてて家にとって返しました」 「嘘じゃないんだろうな」 「どうして、私が嘘なんかを」 「誰かに頼まれたんじゃないのか」  タケルは木村の家の中を見回した。貧しいというほどではないが、けっして豊かではない暮らしぶりだ。 「そんなことはありません」  木村は小さな頭を振った。 「金を積まれたら、心が動くことはあるだろう」 「どういう意味ですか」 「なあ、正直に話してくれたなら、こっちだって考えないわけじゃないぜ」 「正直にお話ししています」  木村はちょっとムキになったように答える。 「そうかな」 「あなたは、何をお疑いなのですか」 「はっきりと言おう。うちの宗主に、嘘の目撃証言をするように頼まれた。そうだろ」 「めっそうもありません」 「じゃ、うちの宗主とはこれまで一度も面識はないのかい」  タケルは太い眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。 「…………」  木村は口をつぐんだ。 「こっちはちゃんと調べているんだよ。あんたは、清滝の料理屋に山菜を納入しているが、そこからの紹介で、うちの宗主があんたを訪ねているだろう。それも、先月のことだ」 「それは、宗主様が野草のことを知りたいと来られたまでのことです」 「ほう、どんなふうに」 「私の山菜取りのことを訊《き》かれたあと、野草の毒のことなどを尋ねられました。お会いしたのは、それ一度きりです」 「しかし、面識はあったわけだ」 「それはそうですが」 「正直に認めたら、どうなんだ。本当は転落するところなんか見ていないのに、見たと証言したって」 「そんなことはありません」 「あんたの話は、おかしいんだよ」  タケルは足を組んだ。 「どうしてですか」 「『大宗主のたたりだ』という叫び声がしたときは、政之の姿は見えなかったんだろ。それなのに、転落する姿は目撃している」 「それが事実なんです。どこから叫んでらっしゃるのかわからなくって、目を凝らしていたら転落するところが見えたのです。行ってみられたらわかりますが、あのあたりは視界がよくないんです」 「もっとおかしいことがある。政之が『たたり』の血文字を残していたことだ」 「私も、驚きました」 「現場に向かった救急隊員にも、話を聞いてきた。政之は仰向けに倒れ、カッと目を見開いていたということだった。そんな状態で死んだ人間が、血文字を書き残す余裕があるとは思えない」 「しかし、血文字はあそこにありました」 「政之ではない別の人物が書いたと考えると、理屈が合う」 「誰なんですか」 「おまえだ」 「そ、そんな」 「おまえなら書ける。そのあと、おまえは何食わぬ顔をして通報をして、救急隊員を現場に案内したんだ」 「違います」 「正直に認めるんだ。おまえは、嘘の証言と血文字を書き残す役をしたんだろ。うちの宗主に雇われて」 「そんなことはありません」  木村は、激しくかぶりを振った。 「新葵流って、聞いたの?」  桜子は、景介に確かめた。 「そう聞こえたよ」 「下市さんが新葵流の斬新さを褒めていたということが気になるわ」 「僕は、杏奈さんとあの師範総長の関係がショックですよ。あれだけの美人だから、男が放っておかないのはわかるけど、よりにもよって、あんな一癖あるようなオッサンと」  景介は頬を膨らませる。 「単に宗主の地位争いというだけでなく、他の流派との勢力争いという要素が出てきた気がするわ」 「新葵流って、よくデパートとかで展覧会をしていますよね」 「せやね。うちはまだ一度も見たことはないけれど、かなり宣伝をしている印象を受けるわ。そこが桂山流への食い込みを狙っているのかもしれへんわ。杏奈さんとか、下市さんを使って」  もしもそうだとしたら、宗主の道頼としては、まさに内憂外患の状態ではないか。 「こんにちは。御苦労様です」  雅空が挨拶《あいさつ》をしてきた。この庭では、彼とは本当によく会う。 「改修は進んでいますか」 「ええ、少しずつですけれど……申し遅れましたが、織部灯籠《おりべとうろう》の件は宗主さんの許可を得ました」 「そうですか。そいつは嬉《うれ》しいな」 「どういうタイプのものがいいですか」  一口に織部灯籠と言っても、大きさやデザインはいろいろある。 「そんなにこだわりませんけど、できれば現物を見たうえで決めたいです」 「わかりました。じゃあ、うちの知っている庭石材店を紹介しますから、そこへお越しになって決めはりますか」 「はい、お願いします」  桜子は手帳を取り出した。取引関係のある庭石材店は三軒ある。それを、全部書き写す。 「この三軒を回らはったら、ええのが見つかると思います」 「ありがとうございます。庭石一つとっても、古くからの業者がぎょうさんいはるので、京都は恵まれてますよね」 「ええ、そのとおりです」  他の土地ではなかなかそうはいかないと聞く。  雅空は手帳の切れ端を桜子から受け取った。 「京都は伝統職人の町です。たとえば茶道の世界では、千家十職《せんけじつしよく》と呼ばれる人たちがいはります。彼らが、袋師や釜師といった人たちが茶道の道具を支えているのです。そして、高い職人技術を現代に伝えてくれています。こんな都市は、京都のほかにはありません。京都こそが、日本のオリジナリティそのものなのですよ」  雅空は誇らしげに言う。  桜子の父の徳右衛門も、京都こそが日本の文化の首都だという考えを持っている。いわゆる京都中華思想だ。貴族の血を引く雅空には、それがより強い気がする。 「ただ、華道の世界に、千家十職にあたる人たちがおらんのは残念です」 「もしも、雅空さんが宗主になってはったら、そういう人たちを創設してはったですか」  千家十職だって、茶道の歴史の初めから存在したのではないはずだ。 「いえ。私は公家《くげ》ですさかいに、批評はしても、実際に動くことはろくにしません。しないというより、できしませんのや」 「そんなもんですか」 「しょせん、公家は口だけですよ。明治維新だって、その旗印は天皇制の復活だったのに、公家はろくに動いてへんやないですか」  雅空は袖《そで》の埃《ほこり》を払った。「私は宗主になんか、向いてへんのです。この桂山流を切り盛りすることなんかとてもとても……。大宗主は家柄で私を養子にしたものの、そのことがわかって改めて政之さんを新しい養子にしたわけどす。私のできることは、お飾り的な役割だけです」  桜子は、どう返事したらいいのか困ってしまった。 「明日の政之さんと悟二朗さんの合同葬儀には、松原さんは行かはるのですか」  雅空のほうから話題を変えてきた。 「いえ、仕事もありますので」  実は少し判断に迷っていた。  出入りの家の関係者の葬儀なのだから、本来なら顔出しをすべきだろう。けれども、宗主との関係が良くない人間となると、話は別だ。桜子の依頼主はあくまでも、宗主の道頼なのだ。そう考えると、行かないほうが無難となる。 「宗主さんは行かはらへんのですね」  桜子は確かめた。 「ええ。私が宗主に代わって行くことになりました」  雅空は頷《うなず》いた。  その翌日の午後二時に、桂政之と悟二朗の合同葬儀が、民間の葬祭センターで始まった。  喪主は、父と弟を同時に送葬することになった弓恵が務めた。和装の喪服姿の弓恵は、開式の前から赤く腫《は》らした目に、ハンカチを押し当てていた。その横には夫のタケルが寄り添い、政之の妻である喜子も陰鬱《いんうつ》な顔をして数珠を握り締めている。  道頼の姿はなく、三万円の献花がなされただけだった。道頼だけでなく、その妻の千代も、息子の翼も、母親の富士乃も来ていなかった。  八橋雅空はそれらの者たちを代理する形で、立礼をしていた。下市規久男は受付に座っていた。久保井杏奈は、場内整理の役だ。胸に真珠のネックレスが光っている。  葬祭センターの職員によって、進行がつかさどられた。読経が上げられ、焼香が始まる。桂山流の公葬ではなかったが、それでも二百人を超える人たちが焼香の列に並んだ。 「それでは、喪主より、みなさまに挨拶がございます」  司会者に促されて、弓恵が前に進み出た。けれども、嗚咽《おえつ》で肩を震わせてハンカチを握り締めるばかりで、出されたマイクを持つこともできない。  タケルが見かねたように、マイクを取った。 「喪主の夫でございます。本日はお忙しいところをお集まりいただきまして誠にありがとうございます。二人の身内を亡くして悲しみにくれているわれわれにとっては、何よりの励みです。政之も悟二朗も、非業と言ってもいい死にかたをしましたから、悲しさはより深いものがあります」  タケルは大きく息を吸い込んだ。そして、意を決したかのように言葉を続けた。「ただ、今回の葬儀をしたことで故人の霊が浮かばれるわけではありません。真相をはっきりさせてこそ、二人は成仏できることになります。政之も、悟二朗も、自殺したとは私には思えません。そんな弱い人間ではないのです。もちろん、�大宗主のたたり�といったことは、まったくの根拠のない作り話です。私は、二人のことを疎ましく感じたある人物によって、殺害されたと確信しています」  会場にどよめきが起こった。 「その人物は——」  タケルは太い眉を吊り上げ、大きな目をぎらつかせながら、人差し指を一本立てた。そして、その指先を壇の献花に向けた。その献花には�桂山流宗主 桂道頼�と書かれた木札が添えられてある。 「何を言うか。あれは、大宗主のたたりじゃ」  参列者の人垣の中から、老婆の声がした。  タケルは驚いて、その声の出どころを探す。  腰の曲がった老婆が一歩前に進み出た。大宗主の妻の桂みね子だった。みね子は焼香の列には加わっていなかった。 「どんな葬儀をやるかとこっそり様子を見に来よったら、こんなザマじゃ」  みね子は皺《しわ》だらけの顔を引きつらせた。 「殺人者は、むしろあんたたちじゃよ。跡継ぎを道頼にしたことを根に持ったあんたらは、大宗主に毒を盛った。そのたたりを受けるのは、当然じゃ」 「またいい加減な濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を」  タケルはマイクを離した。 「大宗主だけでなく、鶴雄もあんたらは殺した」 「黙れ、死にかけ婆あ」  タケルは、みね子につかみかかった。みね子はたちまち倒れる。  葬祭センターの職員や雅空が、必死で割って入る。  騒然とした空気に包まれた葬儀となった。 「大宗主の言葉に従わなんだ者は、制裁を受けるのじゃ」  杏奈に抱え起こされたみね子は、白髪を揺らしながら、しわがれ声を張り上げた。   14 変わりゆく京都  葬儀でのトラブルを知らないまま、桜子はその翌日の日曜日を迎えていた。  携帯電話が鳴る。 「桜子さん、ちょっと出てきませんか」  景介からだった。 「今、劇団での新作企画会議に出ての帰りなんですけど、電車の中で新葵流の展覧会の中吊り広告を見つけたんですよ。京都駅のデパートです。桜子さん、一度も見たことないって言ってたでしょ」 「せやね。行ってみようか。惣菜《そうざい》を買いに出ようと思っていたところだから、デパ地下にするわ」  桜子はすぐに電話を切った。  デパートの美術展示ホールは、無料ということもあって多くの観覧者で賑《にぎ》わっていた。その大半が女性客だ。 「新葵流って、変わってますよね。マグカップや湯飲み茶碗《ぢやわん》に、花が生けてあるじゃないですか」  景介はびっくりした声を上げた。 「こっちはもっとすごいわよ」  ビール瓶やペットボトルが花器になっている。もちろん剣山はない。  桜子たちの会話に気づいたブレザー姿の三十代の男性が近づいてきた。 「われわれ新葵流は、器を問いません。どんなものであっても、花を生ければ造形美が創造できるのです」  男は、胸に�教宣部 片山《かたやま》�というネームプレートを付けている。 「あの、こちらの新葵流は本部はどちらにあるのですか?」 「東京です。もちろん、この京都にも支部はありますが」 「どのくらいの歴史があるのですか」 「戦後の昭和二十四年に創設されました。しかし、歴史など問題じゃありませんよ。古ければいいというものじゃないですから」  片山は笑った。 「お弟子さんは、何人ぐらいいはるのですか」 「気軽に入会できるのがうちのいいところですから、正確な会員数は、本部でもつかんでいません。まあ、ざっと七十万人といったところでしょう」 「入会するにはどうしたらいいのですか」 「稽古日に会場に来られたなら、その場で入会できます。入会金もいりません。月謝のほうは、週一回なら三千円、週二回なら五千円になります」  片山はパンフレットを桜子に手渡した。そこに会場一覧が表になっている。ターミナルに近い貸しビルの一室といったところが多い。 「カルチャーセンターみたいですね」 「いえ、カルチャーセンターとは少し違います。華道という心を教えていますから、単なる教養ではないのです。よろしければ、入会申込書もお持ちください。好きなときに来られたらいいのです。道具なども、すべて会場に備わっていますので、手ぶらで結構です。それと、うちには堅苦しいしきたりはありません。教科書の類もありません」 「古くからのお弟子さんが威張ってはるといったことはないのですか」 「それは、絶対にありません。万一、お困りのことがありましたなら、われわれにお申しつけください。すぐに善処させていただきます」  片山はセールスマンのような口調だ。 「あの」  景介が展示された花を指し示した。花瓶にきちんと生けられたものもある。 「これって、フラワーアレンジメントとどう違うんですか」 「フラワーアレンジメントは、ただ花を並べているだけです。うちは、あくまでも生け花です。花の心をたしなみ、人格を高めていくことが目標です」 「花の心ですか」 「ええ、フラワーアレンジメントは単なる技術です。すなわち、花束をより美しく見せるテクニックなのです。でも、生け花は感覚です。花を生けることは、自分の生きざまの投影なのです」 「まだよくわからないですね」 「一度、実際の稽古会場にお越しになってみてください。見学はいつでもできます。もちろん、男性のかたでも、歓迎します」  片山は、景介にもパンフレットを渡した。  桜子と景介は京都駅ビルに足を向けた。地上一階から十一階まで、スタジアムを連想させる大階段が設けられ、その大階段に沿うように長いエスカレーターが伸びている。二人は、そのエスカレーターに乗った。 「ビルの一室が稽古会場となり、道具を持ち込む必要もなく、ややこしそうな徒弟制度もあらへん。それでいて、花の心を伝えるということを強調して、フラワーアレンジメントとは一線を画している……今の若い人たちに受けそうなシステムやね」  先ほどのホールの一角では、新葵流の稽古場風景がビデオで放映されていた。花瓶やガラスコップ、さらには皿や牛乳瓶や空缶といったさまざまな器に、自分が好きな花を生けていく。花もたくさん用意されていて、まるでバイキング料理のように、自分で選んで生けるのだ。友だち同士で楽しそうに喋《しやべ》りながら、生けていく。教師役の女性も、ごく普通の主婦のような洋装で、笑顔でコーチしている。そこには、師弟のタテ関係は感じられない。そして生けた花をバックに、ピースサインをして写真を撮っていく。 「あの片山という人は、『花の心をたしなみ、人格を高めていく』って言ってましたけど、そんな雰囲気はあのビデオにはなかったですよね」 「強いて言えば、同好会的なノリよね。華道が持っている厳粛さや幽玄さとは無縁やわ。せやけど、楽しいということは伝わってくる」 「同じお金を出して稽古をするなら、厳しいよりも楽しいほうがいいって気持ちは理解できます。新葵流が会員を増やしているのも、なるほどと思いますね。でも、桂山流とか他の流派から『あんなのは華道じゃない』って、文句は出ないんですかね」 「どうなんやろ。華道の定義って、できそうでできひんのと違うかな。それに、新しい流派というのは、どこかで既成のカラを打ち破ってきたんよ。たとえば、桂山流だってそれより以前からあった流派からすれば、新参やったわけやし、竹を使うというやり方もそれまでの定石を破るものやったんやから」 「そうか。批判はしにくいっすよね」  二人は、エスカレーターの最頂部に着いた。そこから階段を一つ上れば、駅ビルの屋上になる。 「景介君は東京出身やけど、修学旅行はどこへ行ったの?」 「中学校のときは、信州へスキー旅行です。高校のときは、沖縄へ平和学習に行きました」 「そういうパターンが増えているわね。かつては京都は修学旅行生のメッカやったけど、今では最盛期の三分の二に落ち込んでいるそうよ。京都市は誘致にやっきになっているけど、減少傾向は止まらへんのよ」 「どうしてそんなことになったんですか」 「体験旅行や海外研修タイプが増えたということやけど、アンケートを取っても生徒たちが京都にはあんまし行きたがらへんということなんよ」 「それ、わからなくもないです。座禅でも組まされて、精進料理を食べなきゃならなかったらどうしようって思うんですよね。なんとなく、古いものってダサイって連想が働くでしょ」 「景介君は今でもそう思っているの?」 「いえ。京都に住んでみたら、古いものの良さがわかってきました。でも、いまだに京都に慣れたとは言えないところがありますよね。とくに京都人のことは、いまだに理解しにくいです。前に言ったことがあると思いますけれど、京都人は�澄んでいるけど底の見えない湖�だと思いますよ。表面的な言葉遣いはきれいだけど、心の底では何を考えているかわからないんです。ほら『お茶漬けでもどうですか』って言われたら、帰らなきゃいけないっていうやつがあるでしょ」 「あれは、うちかてようわからへんわ」 「あ、でも、桜子さんは、例外です。心の底も澄んでいますから」  景介は頭を掻《か》いた。取って付けたような言い方になった。 「フォローが遅いわ」  桜子は肩をすくめた。  二人は駅ビルの屋上に着いた。  きょうはあいにくの曇天だ。 「京都は少しずつ変わっている。この駅ビルもそうやけど、かなり高層の建物が増えたわ」  こうして見渡してみても、京都市内はビルだらけだ。 「この駅ビルって、何メートルくらいの高さなんですか」 「六十メートルよ。市役所前の京都ホテルも、六十メートルあるわ」 「これからどんどん高い建物ができていくんでしょうね」 「京都市のガイドプランでは、この京都駅より北の地域では保存を、南の地域では開発を進めることが基本線になっているわ」 「でも、市役所前の京都ホテルって、京都駅より北じゃないですか」 「せやから、大まかな基本線よ……けど、うちに言わせれば、高層の建物よりも、昔からの町並みを壊していったことのほうが問題やわ。こうして見ても、日本らしい風情を感じさせる木造の瓦《かわら》ぶきの家って、ほんまに少ないでしょ」 「そうですね。やたら、鉄筋コンクリートが目立ちますね」 「八〇年代の終わりから九〇年代の初めにかけて、京都にもバブルの波が襲った。それによって、多くの民家が地上げに遭ってしまったんよ。�応仁の乱以来の打ち壊し�とも呼ばれたわ」 「それで、町並みの景観が変わってしまったんですか」 「そうよ。東京や大阪と同じように、豊かさを求めた結果、京都は大事なものを失ってしもたんよ。それが観光資源の減少に繋《つな》がり、観光収入の落ち込みが、他の産業で穴埋めをしようという焦りにつながって、また町並みを失わせている。そんな悪循環を感じてならへんのよ」 「でも、バブルの波は、京都が望んだわけじゃないでしょ。東京資本が進出してきた結果、そうなったんじゃないっすか」 「確かに向こうから押し寄せてきた。けど、それを食い止められへんかったところに、京都の非力さがあるんよ。東京に比べたら、経済力は十分の一もないそうやから、かないっこあらへん。やっぱり、京都は地方都市やということを思い知らされるわ」 「京都は地方都市ですかね。ちょっと違うでしょ」 「まだ都市の個性は何とか残っているわね。でも、それをいつまでも保っていけるかどうかは、わからへんわ」 「桜子さん。珍しくネガティブですね」 「さっきの新葵流の印象が強いのかもしれへんわ。あんなふうに東京から攻めてこられたら、はたして桂山流とかの京都の華道は持ちこたえられるのだろうかって、心配になってくるんよ」 「僕らからしたら、京都は日本のふるさとってイメージがありますから、それがなくなっていくのはつらいですよね」 「京都の衰退はいつから始まったと思う?」 「さあ。やっぱり首都が東京に移ってからですか」 「必ずしもそうは言えへんわ。政治的に東京に遷都されても、まだ京都はパワーを持っていたんよ。日本初の小学校を作り、琵琶湖から疎水を引いて、その水を利用して発電をして、市電を走らせたんやから」 「じゃ、いつからなんですか」 「うちは、昭和十年代に巨椋池《おぐらいけ》を埋め立てたことが一つの転機になったと思うんよ」 「巨椋池って、名前だけは聞いたことがありますけど」 「京都市の南側、この京都駅から南に約十キロほどのところに約八百ヘクタールという広い池があったんよ。ところがそれを農地にするという経済目的のために埋めてしまった。風水的には、とてもまずいことをしたのよ」 「また、風水っすか」 「前にも話したと思うけど、京都は風水の点からいろんな条件を満たしているとして平安京になったのよ。四神相応《ししんそうおう》の地とされて、南に池があるというのはとても大事だったのよ。でも、それを埋め立てて潰《つぶ》してしまった。それで農地を造って、はたして京都がどれだけ農業生産量を上げたのかしら。それに、京都を農業都市にするってマスタープランがあったわけでもなかったのだし」 「まあ、農業と京都はあまり結びつきませんね」 「風水を小馬鹿にしたらあかんと思うのよ。今、うちらが手がけている洛西桂園だって、奥のほうに�欠け�を作ったときから桂家がうまくいかなくなってきている気がしてならへんのよ」  そのとき、桜子の携帯電話が鳴った。 「もしもし、松原です」 「桂です。桂道頼です」 「あ、はい」  噂をすれば……というタイミングだ。 「今、どちらですか?」 「京都駅のほうにいます」 「何か用事で出かけてられるのですか」 「いえ、もう終わりました」 「それはよかった。じゃ、すみませんが、今から少し時間を取ってくれませんか」 「かまいませんが、何でしょうか」 「また証人になってもらいたいのです」 「代理口伝の証人ですか」 「いえ、あれはもう署名をしてもらいましたから。今度は、別件です。実はきのう、政之と悟二朗の合同葬儀があったのですが、その場でタケルが私を名指しして殺人者呼ばわりしました」 「え」 「タケルの行為は、明らかに名誉|毀損《きそん》になります」  一族を写真で紹介したとき、道頼は自分と血の繋がった者は呼び捨てで、その配偶者には「さん」付けをしていた。すなわち、道頼は�タケルさん�と言っていた。ところが、今は呼び捨てだ。 「それだけじゃありません。私は、タケルが大宗主の殺害を企てていたという証拠をつかみました。偶然見つけたのですが、これが天の配剤というものでしょう」  道頼の声は少し上擦っている。「私はこれから、タケルと会うことにします。そして、問いつめます。申し訳ありませんが、第三者として立ち会ってもらえませんか。こんなことを頼むのは失礼なのはわかっているのですが、なかなか第三者のかたがおられなくて……桜子さんなら、桂家の事情もある程度わかっていただいていますし」 「立ち会うのが嫌なわけじゃないのですが、目の前で言い争いになるのは困ります」 「私としても、トラブルは起こしたくありません。そのためにも、第三者の立ち会いが欲しいのです。松原さんを巻き込む気はありません」 「吉田景介君を連れていってもいいですか」 「助手のかたですね。証人は一人より二人のほうが、ありがたいです。ぜひお連れしてください。お礼のほうは必ずいたします」 「お礼なんか期待していません」 「失礼しました。お礼のことは撤回します。それじゃ、何時ごろに来てもらえますか。なるべく早いほうがありがたいのですが」 「午後二時で、いかがでしょうか」 「わかりました。では、午後二時に、洛西桂園の書院の中でお待ちしています。タケルにも、その時間に来るように伝えておきますので」 「くれぐれも平和的な話し合いをお願いします」 「それは、約束します」  道頼は確言した。 「景介君。洛西桂園へ行くわ」  桜子は車のキーを取り出した。 「タケルが大宗主の殺害を企てていたという証拠をつかんだって、いったいどんな証拠なんでしょうね」  景介は軽トラックの助手席で帽子をかぶり直した。 「あまり好奇心を出さないでよ。桂家の人たちにとっては、深刻な話なんだから」 「でも、大宗主が亡くなったのは、一昨年のことなんでしょ」 「政之さん、悟二朗さんと、相次いで二人の人が亡くなったことで、何か新しいことがわかったのかもしれへんわ」 「なんだか、ちょっとワクワクしますね。それに�大宗主のたたり�っていうのはすごいですよね。まるでホラー映画みたいじゃないっすか」 「だから、好奇心はダメ」  桜子はたしなめたけれど、景介の気持ちはわからないでもない。洛西桂園に足を運ぶようになってから、二人の人間が死んでしまった。しかも、そのうちの一人は「たたり」を口にし、血文字も書き残した。非日常的なことが、あの華道の名門の家で起きている。 「一昨年に大宗主が亡くなって、それにずいぶん前だけど鶴雄という人が幼くして死んでいるでしょ。その遺髪が入っているというお墓の写真を撮って怒鳴られたときの声が、まだ僕の耳に残っていますよ」  洛西桂園に隣接する竹林の塀が見えた。  桜子はハンドルを切った。もうすぐ洛西桂園の門の前に着く。時刻は、午後二時ちょうどだ。 「あ、あれは」  景介が助手席から身を乗り出して、目をしばたたかせた。大柄な男が洛西桂園の門から走って出てきた。太い眉《まゆ》と大きな目が特徴的だ。 「タケルさんよ」  タケルの表情はひどく硬く、強ばっている。 「どうしたんですかね。宗主に呼びつけられたはずなのに」  洛西桂園に入っていくならわかるが、出ていくとはどういうことなのだ。  タケルは桜子の軽トラックに気づいた。大きな目を剥《む》いて、さらに表情を硬くする。そして彼は舌打ちをしたように、桜子には見えた。タケルは逡巡《しゆんじゆん》した様子で一瞬足を止めたものの、すぐに反転して逆方向に走り出した。その後ろ姿がどんどん遠くなる。 「何を考えているんですかね。あの男……」 「わからへん」  桜子は軽トラックを停めた。 「タケルがいなければ、話し合いなんかできないんじゃないっすか」 「せやね。けど……とにかく、書院に行ってみましょう」  桜子は、嫌な予感に囚《とら》われていた。  電話で、桜子は道頼にタケルとの平和的な話し合いを要請した。道頼はそれを約束した。けれども、その一方の当事者であるタケルが強ばった表情で走り出てきたのだ。  もしかしたら、桜子が着く前に、二人は話を始め、決裂したのではないか。  桜子は軽トラックを降りた。景介もそれに続く。  桜子の携帯電話が鳴る。 「もうっ、こんなときに」  と言いながらも、桜子は受信ボタンを押す。 「か、桂道頼です」  道頼の声はひどく力がない。 「どうかしはりましたか」 「今、どこですか?」 「桂園の門の前まで来ています」 「タケルに……タケルにやられた」 「え」 「ナイフで、いきなり襲ってきた」 「何ですって」 「刺しただけで足らないのか、やつは火をつけていった……」  桜子は胸が締めつけられそうになった。できることなら、嘘であってほしい。耳から伝わってくる言葉は、むごすぎる。 「今、どこにいやはるんですか。書院ですか」 「そ、そうです」 「すぐに助けに行きます。待っていてください」  門をくぐる。  キナ臭いにおいが、かすかにする。  桜子は走りながら、悪寒を感じた。 「もしもし」  携帯電話を握り締めながら、道頼に向かって叫ぶ。だが、応答はない。  書院は門から最も遠い位置にある。もどかしい思いが足をもつれさせる。 「桜子さん。煙が見えます。火事かもしれません」  景介が指をさす。アカマツの間から、白い煙が上がっている。その向こうには池があり、そして書院がある。  桜子も景介も必死で走った。景介がアカマツの根につまずいて転んだ。それにかまっている余裕はない。桜子は懸命に足を急がせた。 「ああ」  桜子は、声にならない声を洩《も》らした。やはり煙は、書院から上がっていた。  煙は、白から黒に変わりつつある。勢いが増しているのだ。  桜子は迷った。しかし、書院の中に道頼がいるということが、決意をさせた。 「景介君。消防署に連絡して」  桜子は、遅れながらも必死で走り込んでくる景介に向かって携帯電話を放り投げた。そして、いきなり池に飛び込んだ。 「桜子さん!」  景介が悲鳴に近い声を上げた。  全身を水で濡《ぬ》らした桜子は、書院に向かって突進した。 「桜子さん、やめてください」  景介が声をかすれさせる。 「今やったら間に合うかもしれへんのよ」  桜子は書院の出入り戸を開けた。  中から、赤い炎が勢いよく噴き出してきた。そして、生き物のように桜子に襲いかかる。  本能的に顔を両手で押さえながら、桜子は倒れた。  第三部 花の殺意   15 緊急配備  目を開けると、天井の梁《はり》が見えた。 「気がつきましたか」  景介が覗き込んでいる。桜子は畳の上に寝かされていた。額には濡れタオルが載せられている。 「あ」  われに返った桜子は、恐る恐る顔を触った。 「大丈夫ですよ。前髪がちょっと焦げただけです」 「鏡が見たい」  桜子は起き上がった。額に載せていたタオルが落ちる。 「信用してくださいよ」  景介はそう言いながらタオルを拾い上げた。その横に、雅空の姿があった。 「鏡を持ってきます。待っていてください」  雅空が立ち上がった。 「ここはどこなん?」 「雅空さんの家です。僕たちの騒ぎを聞いて、雅空さんが庭のほうへ駆けつけてくれたのです。本当に、桜子さんのおてんばぶりにはまいりましたよ。もう少しで、大|火傷《やけど》を負っていたところでした」 「書院はどうなったの」 「ダメでした。失神した桜子さんを抱え起こしながら、僕は駆けつけてくれた雅空さんに消防署への通報を頼みました。しかし、燃え盛り出した火の手は、書院をどんどん包み込んでいきました。消防署員たちが到着して、ホースで水を大量にかけてくれたのですが、結局全焼です。とても火の回りが早くて」 「そんなことより、道頼さんは?」  景介は力なく、首を左右に振った。 「焼死体で、発見されました」  雅空が手鏡を持ってきた。 「こんなものしか、ありませんが」 「すみません」  桜子は鏡に映った自分の顔を確認した。前髪がパーマを当てたかのように縮れている。眉毛《まゆげ》も、すこし焦げてしまったようだ。幸いにも、被害はそれだけだった。  あとはとっさに顔を覆った手が、軽くヒリヒリする。 「桜子さんが、命がけで助けてくれようとしてくれはったのですけど、残念ながら宗主は」 「景介君から聞きました」  桜子は起き上がって正座をした。服はまだ濡れている。 「ようやく鎮火となって、これから警察が現場検証に取りかかるそうです」 「タケルさんは?」 「え、タケルさんがどうかしたんですか」  雅空は意外そうな顔をした。 「まだそのことは話していないんっすよ。桜子さんをこうやって助けることで精一杯でしたから」  景介が割り込むように言う。 「タケルさんがどうしたのですか」 「ええ、実は」  このことは、雅空に対してだけでなく、警察にも話しておくべきことだと思えた。 「これで三度目か」 「せやね」  桜子は竜彦に相対した。竜彦は雅空の家までやってきた。そして、警察車両の中での事情聴取となった。 「これまでの中で、今回が一番重要な意味を持つと思う。前の二つは、自殺事件についての事実確認ということだったけれど、今度は他殺——それも容疑者が浮かんでいる」 「ええ」 「警察から、だいたいのことは聞いたけど、もう一度話してくれないか」 「わかったわ」  桜子は、ここに来るまでの経緯をかいつまんで喋《しやべ》った。  竜彦は真剣な顔で聞き入った。 「洛西桂園から出てきたのは、間違いなく桂タケルだったんだね」 「ええ、景介君も見ているわ」 「そして、その直後に『タケルに……タケルにやられた』と、桂道頼からの電話があったわけか」 「そうよ」 「確かに桂道頼の声だったんだね」 「ええ、間違いあらへんわ」  あのときの力のない道頼の声は、まだ桜子の耳に残っている。 「道頼さんの死因は、焼死やったの?」 「いや。検視官の報告だと、首筋を刺された結果による失血が直接の死因のようだ。凶器と思われる焼け焦げたナイフが火災現場で見つかっている」 「じゃ、道頼さんの『ナイフで、いきなり襲ってきた』という言葉は本当やったのね」 「そうなるよ。君の今の証言は、とても意味を持ってくる。ちょっと待っていてくれ」  竜彦は立ち上がった。 「どこへ行くの?」 「警察に緊急配備を指示してくる。桂タケルは家に帰っておらず、所在不明だ。ナイフは現場に置いているから、もう凶器は持っていないと思えるが、二次犯罪の恐れもある」  竜彦は車から出ていった。  桜子は前髪に手をやった。焦げた髪がパサパサと落ちてくる。 (とんでもないことになってしもうたわ……)  悪い夢であってくれたならと思うが、これは現実だ。  道頼は、タケルに襲われて刺殺された。彼の「今度は、自分かもしれない」という懸念は不幸にして当たった。代理口伝は意味を持ってしまった。  桜子は、吐息をついた。  これで、三人の人間がごく短期間の間に死んでしまった。  政之、悟二朗、道頼……  政之と悟二朗は、どちらも自殺の可能性が高い。警察はその方向で処理しようとしていた。  けれども、タケルは合同葬儀の場で「二人は殺された」として、その犯人として道頼を名指ししたということだった。  そして、その道頼が殺された。 (いったい、どう考えたらええの……)  タケルが指摘したように、政之と悟二朗は他殺で、その犯人は道頼なのだろうか。だとしたら、タケルは道頼を追及して、報復として刺し殺したのかもしれない。 (けど、道頼さんからの電話の内容は違った)  道頼は、「私は、タケルが大宗主の殺害を企てていたという証拠をつかみました。これから、タケルと会います。そして、問いつめます」と、桜子に立ち会いを求めた。  すなわち、道頼はタケルを問いつめようとし、タケルはそれからのがれるために道頼を殺したという構図が見えてくる。 (うちは『トラブルになるのは嫌です』って言うたのに)  トラブルどころではない最悪の結果となった。道頼は殺され、書院は全焼した。  竜彦が戻ってきた。 「緊急配備を要請しておいた。君も、しばらく警護の対象にするかもしれない」 「なんでなの?」 「君は、門のところでタケルと顔を合わせているじゃないか。もしもタケルが犯人なら、君を口封じしようとする可能性がないとは言えない」 「えらいことになってきたわね」 「人ごとじゃないよ」 「せやね」  桜子は、代理口伝の証人にもなっている。 「宗主を殺したうえに書院を燃やすという犯行には、残忍さを感じるよ」 「なんだか、恐くなってきたわ。けど、それにしても、書院は火の回りが早かった気がするわ」  庭に入ったときにキナ臭さに気づいた。それから白煙が上がっているのを認め、池で体を濡らして飛び込もうと書院の扉を開けたときは、中はもう火の海だった。新鮮な酸素を求めていた炎は、桜子が開けた扉から勢いよく噴き出してきた。いわゆるバックドラフト現象だ。 「鑑識の報告によると、書院の床には灯油がまかれていたということだ。それで、一気に火が回った。道頼さんの体にも灯油はかけられていたんだ。だから、ほとんど黒焦げに近い死体になってしまった」 「やだ……黒焦げなんて」  桜子は頬に手を当てた。 「幸い、首から上にはあまり灯油がかかっていなかったから死んだのが道頼さんに間違いないということは確認できたけれど」 「灯油をまいたのもタケルさんの仕業?」 「彼が犯人なら、おそらく」 「何のために、火をつけたのかしら」  道頼は首を刺されて失血死したということだ。 「二つの理由が考えられる。一つは刺しただけでは息を吹き返すことが不安で、焼くことでダメを押そうとした。もう一つは、証拠隠滅のための放火だ。凶器のナイフなどは柄の部分が燃えてしまっている。消防車の到着があれより遅かったなら、もっといろんなものが焼けていただろう」 「けど、もしタケルさんが灯油を持ち込んだのだとしたら、車に乗ってきていたんやないかな」  桜子が見かけたタケルは、洛西桂園から走って出てきた。ということは、車に乗ってきたのではないはずだ。 「鑑識が、焼けて溶けてぐにゃぐにゃになったペットボトルを現場で見つけている。それに灯油が入っていたと思われるということなんだ。二リットル入りのペットボトルだから、車を使わなくても持ち込むことはできるだろう」  タケルの体格なら、容易なことだ。 「検事。ちょっとすみません」  検察事務官が、車窓をノックした。  竜彦は車窓を下げた。検察事務官は、竜彦の耳元で小声で報告をする。 「わかった。すぐに行くと伝えてくれ」  竜彦はそう答えた。検察事務官は小走りに去っていく。  竜彦は車のドアに手をかけた。 「桂タケルの身柄が確保されたという報告が入った。嵐山の自宅の様子を窺《うかが》っているところを、警戒中の警察官に発見され、誰何《すいか》されて逃げるところを取り押さえられたということだ。今から、事情聴取に行ってくる」   16 犯行否認  身柄を確保されたタケルは、嵐山警察署に移送されていた。  その取調室で、竜彦はタケルに相対した。 「桂タケルだな」  まず人物確認から入る。 「疑われるのはわかるが、犯人はおれじゃない」  タケルは首を横に振った。 「どういう意味だね?」 「呼び出されて書院のほうへ行ったら、中で道頼の奴が倒れていたんだ」 「いい加減なことを言うな」  同席した刑事が怒り声を上げる。  竜彦はそれを手で押しとどめた。 「最初から、説明してもらおう。なぜ、洛西桂園へ行ったんだ?」 「だから、道頼の奴のほうから呼び出しの電話があったんだ。『葬儀の様子を聞いた。これまでのことを詫《わ》びて、話し合いをしたい』って」 「いつごろのことだ」 「正午過ぎだ。かなり低姿勢なので、おれは『話し合いに応じてもいい』と返事した。そうしたら、そのあともう一度電話がかかってきた。『申し訳ないが、今からすぐに来てほしい。これから警察に自首するので、同行してもらいたい』という内容だった。葬儀でおれが指弾したことが効いて、改心したんだと思った。それで、言われたとおりに書院まで行ったんだ。そうしたら、奴は火の手が上がった書院の中で、倒れていたんだ」 「また出まかせを」  刑事が再び怒る。 「本当だ。おれは巻き添えになっちゃかなわないと書院を飛び出したんだ」 「おまえが入ったときにすでに書院は燃えていたと言うんだな」 「そうだ。火の輪の中に奴が倒れていた」 「どんなふうに倒れていたんだ」 「仰向けに大の字になっていた」 「嘘をつくんじゃない。おまえは桂道頼を刺殺しただろう」  刑事が声を荒げる。 「知るもんか。濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だ」  タケルは立ち上がる。 「落ち着くんだ」  竜彦が二人の間に割って入る。 「それで、洛西桂園を出るときに、誰かに会わなかったか?」 「植木屋の軽トラックに出くわした。おれはえらいことになったと思った。こっちに容疑が向いてしまうって……だから、帰るに帰れず、嵐山のあたりをウロウロしていたんだ。だけど、手持ち無沙汰《ぶさた》で何もしないのは苦痛でしかたがない。二時間ほど経ったので、様子を窺いに家の近くまで行って、捕まることになった」 「大事なことなので、もう一度確認する」  竜彦は、タケルに顔を近づけた。「書院に入ったとき、火は放たれていて、桂道頼はすでに死んでいた。そういうことだな」 「そのとおりだ。おれがやったんじゃない」 「それで、あわてて書院を出て、洛西桂園を飛び出した。間違いないな」 「ああ、間違いない」  竜彦は、桜子から書院に飛び込もうとしたいきさつを聞いていた。  その様子は、きちんとメモにも取ってある。  ——うちが洛西桂園に入ろうとしたとき、出てきたタケルさんと会うたわ。  ——どんな感じだった?  ——強ばった表情で、あわてて飛び出してきたように見えたわね。変やなと思いながら軽トラックを降りたら、道頼さんからの電話がうちの携帯に入ったのよ。  ——電話の内容は?  ——苦しそうに『タケルに……タケルにやられた』って。うちが『え』と聞き返すと、『いきなり、ナイフで襲ってきた』と。  竜彦は、そのメモを確認した。  タケルが洛西桂園から飛び出してくるところを目撃した桜子と景介が軽トラックを降りたときに、道頼は電話をかけている。  つまりそのときは道頼はまだ生きていたわけだ。 �すでに道頼が死んでいて、火が放たれていたので、容疑がかかってはまずいと考えて逃げた�というタケルの話の信憑《しんぴよう》性は崩れることになる。  竜彦は、警察の幹部と協議をしたうえで、逮捕状の請求を決めた。  桜子は焼け落ちた書院を前にしていた。黒く焦げた柱が無惨に残っている。炭臭い匂いが鼻腔《びこう》を刺激する。 (信じられへんわ)  道頼に案内してもらって、ここに足を踏み入れたのは先週のことだった。そのときに、ここで桂一族の集合写真を見た。そこに写っていた人間が、わずかな間に三人も死んでしまった。  あの集合写真も、当然燃えてしまっただろう。風格と伝統を感じさせる建物は、もはや炭素の塊となってしまった。 (はたして再建される日は来るのやろか)  桂離宮にあった竹林亭は、桂川の氾濫《はんらん》で流され、再建されないまま今に至っている。 (この桂家はどうなるんやろ)  宗主の道頼が亡くなった以上、跡継ぎは六歳の翼ということになる。しかし、六歳の子供に舵取《かじと》りができるはずがない。弟子の減少や新葵流の切り込みなど、桂山流をめぐる状況には厳しいものがある。 「やはり、たたりじゃ」  背後で聞こえた呻《うめ》き声に、桜子はどきりとした。  杖《つえ》を持ったみね子が立っていた。 「この書院は、二百年にわたって桂家の歴史を刻んできた。二百年じゃぞ。一人の人間の一生より、はるかに長いその間に、明治維新が起こり、大東亜戦争が行なわれた」  みね子は前に進み出た。 「政之を養子にしたのが、すべての過ちの始まりじゃった。先代は、大宗主と呼ばれるのにふさわしいほどの非の打ちどころのない御方じゃったが、自分の甥《おい》っ子という理由で政之を後継者にしようとしたことだけが、ただ一つの失態じゃった。そのために、あの無神経な悟二朗が乗り込んできて、欲に目がくらんで好き勝手なことを始めおった」  絞り上げるようなみね子の声だ。「あの人は、自分の弟と甥っ子に毒殺されてしまった。そのたたりが、これなのじゃよ」 「英太郎さんが毒殺されたというのは、本当なのですか」 「政之が釣ってきた鮎《あゆ》に毒がまぶしてあったのじゃ。そうに決まっている」 「けど、警察の捜査ではそんなことはなかったということでした」  みね子はそれには答えず、書院に向かって杖を振り上げた。 「こんな書院は、いっそのことなくなってしもうたほうがええのかもしれん」  みね子は、杖を黒く焦げた柱に振り降ろす。ガキッという音とともに、柱が折れる。老婆にしては、強い力だ。 「くそっ、くそっ」  みね子はなおも杖を振り降ろす。柱の黒い破片が飛び散って白髪にかかるが、みね子はやめようとしない。  桜子は鬼気迫るみね子の姿に、思わずあとずさりをした。   17 日陰と忠臣  屋敷のほうでは、千代が翼を抱きかかえながら涙を流していた。六歳の翼は、父親が急死して自分が新宗主になることまではまだ完全には理解できていないだろうが、いきなり父を失った悲しみと衝撃は大きい。  母子が泣き続ける姿を、景介は正視できなかった。通夜の準備など力仕事が必要になったときに男手がいないと困るだろうからと、桜子から待機するように頼まれていたのだが、今は通夜の準備どころではないようだ。道頼の遺体も、まだ戻ってきていない。  景介は庭園のほうへ出た。そして足を止めた。  下市と杏奈の姿が見えたからだ。  景介はヤブツバキに身を隠しながら、その様子を窺《うかが》う。  二人の声が聞こえてくる。 「新宗主の襲名はいつになるの?」 「葬儀のあと、すぐにやるだろう。問題は、誰が後見人になるかだ」 「母親の千代さんじゃないの。代理口伝を受けているんだし」 「いや、そうとは限らない。新宗主の祖母である富士乃という可能性もかなりあるぞ。お嬢さん育ちの千代よりも、富士乃のほうが桂山流をまとめていく力は上だと思える。それと、みね子が後見人になるという線だって捨て切れない」 「あんなお婆さんが」 「いまだに大宗主の影響力は強い。あの老婆は、その正妻だ」 「いずれにしろ、新葵流にとっては見通しが狂ったわね」 「政之と悟二朗の二人が死んだだけでも提携には慎重になってしまったのに、このうえ宗主まで死んだのではとうてい無理だ」 「せっかくここまで新葵流のために情報提供役をしてきたのに」 「しかたがない。こんなに事件が続いたのでは、新葵流としても、提携を狙っていたことが明るみに出ると勘繰りを受けてしまいかねない」 「この機に乗じて、あなたがこの桂山流を乗っとってやろうっていうくらいの気持ちはないの」 「そこまでは……血を引かない者が、桂山流を取り仕切ることは無理だ」 「昔とは違うでしょ」 「いや、伝統の重みは、そう簡単に覆らないさ」 「カイショなし」  杏奈は叱責した。景介は思わず身を縮ませた。美人は気が強いとよく言われるが、それを地でいくような女性だ。  桂家のことを景介に委ねて、桜子はいったん家に帰った。  池に飛び込んだときの服のままだ。とっくに乾いてはいるが、やはり着替えておきたい。それに、父の徳右衛門にも報告が必要だ。 「桜子、いったいどこへ行っていたんだ。携帯電話に連絡を入れたんだが、ウンともスンとも応答がない」 「あ、かんにん」  煙を上げる書院を前に、桜子は景介に消防車を呼んでくれるように頼んで携帯電話を投げた。そのあと池に飛び込んだり、炎に襲われて昏倒《こんとう》したりで、すっかり携帯電話のことを忘れていた。景介も、それどころではなかったようだ。消防車は、雅空が呼んでくれていた。 「桂はんのところがえらいことになっている。さっきニュースで報じられていた」 「知っているわ。うちは、その現場にいたんやから」  桜子は、これまでの顛末《てんまつ》を早口で話した。ただし、燃える書院に飛び込んだことだけは、伏せた。体の不自由な父親によけいな心配はかけてはいけない。 「なんちゅうこっちゃ」  徳右衛門は天を仰いだ。 「ニュースで、タケルさんのこと、何か言っていた?」 「いや、そこまでは」  桜子はテレビのスイッチを入れた。だが、そううまいタイミングでニュースはない。  テレビをつけたまま、風呂《ふろ》を沸かした。 「それにしても、男ばかりが三人も亡くなったことになるのう」 「ええ。男手がいることもあるかもしれないと、景介君に残ってもらったわ」  ここしばらくは、庭の改修どころではないだろう。ただ桜子としては、引き受けた今回の改修はぜひ最後までやり終えたい。気になる庭園の�欠け�にも、まだほとんど手を付けていない。  風呂が沸くと、桜子はすぐに服を脱いだ。  まずシャワーを浴びて、頭をシャンプーする。  生き返ったような気持ちになる。 (けど、道頼さんは生き返らへん)  失神していた桜子は、道頼の死体を見ていない。だが、景介はまのあたりにしたと言っていた。体のかなりの部分が黒焦げになったむごい焼死体だったそうだ。 (亡くなったのは男ばかりか……)  浴槽《よくそう》につかった桜子は、徳右衛門の言葉を思い起こした。  政之、悟二朗、道頼とすべて死んだのは男性だ。  その前は、大宗主の英太郎、そしてその子供だった鶴雄が幼くして死んだ。 (やはり跡目争いが関わっているということなんかしら……)  桂山流の宗主になるのは、男と決まっているのだ。 (桂山流だけでなく、家元というのはほとんどが男やわ)  合理性はないはずだが、�男に限る�とか�世襲以外は認めない�といった伝統的な制約が、今も根付いている。 (男ばかりが亡くなった結果、桂家で残った男性は、六歳の翼君とタケルさんだけか……)  あとは養子縁組を解消して、八橋姓に復した雅空だけだ。女性陣は、みね子、富士乃、千代、喜子、弓恵、その娘の奈津美の六人で、まったく変動はない。 「桜子、ニュースで桂家のことをやっておるぞ」  徳右衛門の声に、桜子はあわてて浴槽から上がった。物心ついたときから父親の前でバスタオルを一枚巻いただけの格好など見せたことはないが、ここはそんなことを気にしている場合ではない。  画面に、タケルの顔写真が出ていた。 �京都府警は、桂タケル容疑者、四十九歳を桂道頼さん殺害容疑で逮捕し、動機などの追及をしています�  簡単なコメントだった。 「やっぱり逮捕か」 「桜子の話を聞いていたら、逮捕されて当然じゃと思うがのう」  徳右衛門は、娘のバスタオル姿にちょっと視線を下げた。 「それは、そうなんやけど」  桜子はもう一度浴室に向かった。  道頼は「タケルにやられた」と明言した。そして、そのタケルが現場から走り去った。それらの事実は、動かしがたい。しかし、なぜタケルが犯行に及ばなくてはならなかったのかは、わからないままだ。しかも、あんな派手なやりかたで。  それに、政之、悟二朗の二つの事件との関係もはっきりしない。  もしも前の二つの事件が他殺だったとして、それもタケルが犯人だと仮定して、三つもの殺人を犯した理由はいったい何だったのだろうか。 (宗主の地位を得るため?)  いや、それはちょっと考えにくい。翼がいる限り、不可能だ。それに、婿入りしたタケルは桂の血を引いていない。 (もしも翼君もいなくなったなら)  そうなると、男性は八橋雅空とタケルの二人だけとなる。  雅空は、悪く言えば世捨て人だ。養子になったという前歴はあるものの、桂の血を引いていないという点では、タケルと同じだ。となると、後継者はタケルということになるのではないか。 (もしもタケルさんが、翼君までも殺す計画を立てていたとしたら)  一応の動機は成立することになる。  タケルとしては、たとえ政之や悟二朗が宗主になったとしても、その後塵《こうじん》を拝する立場しか得られない。それならばいっそのこと、と考えた…… (せやけど)  桂山流宗主の地位は、翼を入れて四人の人間を殺すという手間をかけ、危険を冒してまで獲得したいものなのだろうか。  華道が衰退傾向にあることは、否定しがたい。新葵流のような新興勢力の食い込みもある。 (それに大宗主の死との関わりも、どないなるんやろか)  みね子は、政之が釣ってきて差し出した鮎《あゆ》に毒がまぶしてあったために死んだと言っていた。けれども、それならば、英太郎が入院した先の医師や警察が何かをつかんでいたと思えるのだ。みね子の話には、裏づけがない。 (大宗主の子供の鶴雄の死との関わりとなると、まったく不明やわ)  鶴雄が死んだのは、三十年以上も前のことだ。  黒に近い濃紺のスーツに着替えた桜子は、再び桂家に車を走らせた。そろそろ夕暮れを迎える時間帯だ。 「景介君、ありがとう」  珍しい桜子のスカート姿に、景介はほおっと驚いたような顔を見せた。 「ずいぶんイメージが変わりましたね」 「うちはほんまはこういうファッションも好きなんやで」  仕事のときにはアクセサリーは何もしない桜子だが、アメジストの指輪をしている。紫系統の石には、集中力が高まり、ものごとを洞察するパワーがあると風水では言われている。わからないことが多い今の状態を何とかしたいという桜子の気持ちが、弔事のときに一般的とされる真珠よりもアメジストを選ばせた。 「それで、何か変わったことはなかった?」 「とくに報告事項はありませんね。また杏奈さんがあの男とヒソヒソ話をしていたぐらいです」 「タケルさんが逮捕されたことは伝わっているの?」 「ええ。富士乃さんが、テレビのニュースで報じられたって言っていましたから」 「そう」 「ちょっと食事に行ってきていいですか。腹ぺこですから」 「ええ。うちの車を使ってもええわよ」  桜子はほとんど食欲が湧かない。風呂《ふろ》上がりにコーヒーを口にしただけだ。  景介が出たあと、桜子は桂園に足を向けた。書院の近くで放り投げたままの携帯電話を回収しておきたい。  夕日を浴びた池が美しい。  この洛西桂園に限らず、歴史のある庭園は、何百年とその姿を保持している。しかし、その間に、主は幾度となく交代している場合が少なくない。  洲浜のところに、八橋雅空がぽつんと立っていた。 「またお会いしましたね」  珍しく、桜子が声をかけることになった。  振り向いた雅空は白い歯を見せた。 「やあ、こんにちは。いや、こんばんはかな」  微妙な時間帯だ。 「よく会いますね」 「毎日来ていても、やはり心が落ち着きます。とくにきょうみたいな日は」 「たいへんでしたね」 「桜子さんが命がけで宗主を助けようとしてくれはったことには、本当に感謝しています。私やったら、足が震えるばかりで何もできなかったに違いありません」 「そんな……無我夢中でしたから」  桜子は照れくさかった。道頼が救出できていたならともかく、むしろ失神した桜子は雅空に手間をかける結果となってしまった。 「あの、雅空さん。うちは、道頼さんから『私は、タケルが大宗主の殺害を企てていたという証拠をつかみました』という電話を受けました。それで、第三者としてタケルさんとの話し合いの証人役になってほしいということで、こちらに車を走らせたのですけれど、その証拠云々といったことについて、何か聞いてはりませんやろか」 「いえ。まったくの初耳です。宗主はそんなことを言うていたのですか」  雅空は視線をそらすように横を向いた。その先には、鶴雄の遺髪が愛猫とともに眠る墓石がある。 「それから、鶴雄さんのことを、もう少し詳しく教えてください。どうやって亡くなったのですか」  雅空が英太郎の養子となり、さらに政之もまた養子となってから、鶴雄は生まれた。だから、そのあたりの事情を雅空は知っているはずだ。 「鶴雄君は高熱を出し、急に亡くなりました」  そのことは、すでに聞いている。 「けど、誰もそのことに気づかなかったのですか」  幼児は急に体の具合が悪くなることがある。誰か大人が目を配っているのが普通ではないか。 「つらい日に、つらいことを訊《き》かはりますね」 「すみません」 「年に一度の総会があって、大宗主とみね子さんはそちらに出席していました。富士乃さんもたまたま外出してはって、鶴雄君は一人残されていました。富士乃さんが帰ってきはったら、鶴雄君が真赤な顔をして苦しそうに痙攣《けいれん》を引き起こしていたのです。泣き声を上げることもできないほどの、ひどい状態やったのです。富士乃さんは、すぐに病院に連れていきました。けれども、鶴雄君は急性の内臓疾患を起こしていて、生死の境をさまよい、結局息を引き取ってしまいました。ちょっとあっけないほどでした」 「そのときも、たいへんだったでしょうね」 「ええ。とくに大宗主の悲しみぶりは尋常ではなかったです。四十五歳にしてやっとできた子供で、しかも目鼻立ちがよく似ていたこともあって、大宗主は本当に可愛がっていました。それだけに、失ったときのショックは大きかったわけです」 「それで、あの墓石ができたわけですか」 「あれは、母親である富士乃さんが作らはったのです。鶴雄君が可愛がっていた猫が、それから二、三カ月後に、あとを追うように死にましたので、その供養塔の意味も持っています。あのときに、誰よりも気の毒やったのは、母親の富士乃さんでした。自分自身もわが子を失った悲しみを抱えながら、大宗主の気持ちを懸命に癒やそうとしました」 「そうやったんですか」 「とにかく不幸な出来事でした。誰かが鶴雄君の異変にあと少し早く気づいていたなら、救えた命だったかもしれません。この家は、いろいろな悲劇が起こります」  雅空は目をパチパチさせた。涙腺の潤みをこらえているかのように、桜子には見えた。 「すみません。つらいことを思い出させてしまいました」  桜子は話題を変えることにした。 「織部灯籠《おりべとうろう》のほうは、いいものが見つかりましたか」 「ええ、紹介してもらった庭石材店を回って、決めてきました。来週にでも、こちらに搬入してもらいます。据え付けは、桜子さんに頼んでいいですか」 「はい。引き続き庭園の改修をさせてもらえるのでしたら」  改修の依頼主は、あくまでも道頼だ。その道頼がいなくなった以上、依頼が継続されるかどうかは確認が必要になってくる。 「私は桂家の人間ではないので、それを決める任にはありませんが、ぜひ継続していただきたいと思っています」 「どなたに確認をしたらいいのでしょうか」 「富士乃さんやと思います。年齢的にも、道頼さんの母親という立場からいっても、富士乃さんが桂家を主導しはることになるでしょう。もちろん、表向きは新宗主の翼君ですけど」 「あたしのことが話題になっているようね」  背後からの声に、桜子は驚いて振り向いた。そこに富士乃が立っていた。 「雅空さんを訪ねて、ここまで来たのよ。道頼の装束がどこにあるか、御存知ないかしら」 「いえ、知りませんけど」 「装束を捜すのを手伝ってくださらないかしら。遺体が帰ってきたら、宗主らしく棺に一緒に入れてあげたいのだけれど、千代さんはまだ取り乱した状態だし」  桜子が書院で見せてもらった集合写真で道頼は衣冠束帯を身につけていた。あれが、宗主としての正装なのだろう。 「わかりました。あ、そうだ。今、話していたんですけれど、桜子さんには引き続いて庭の改修を頼んでもかましませんよね」 「そうね。桜子さんは、体を張って道頼を助けようとしてくれはったのやし」 「そんな体を張ったやなんて」 「じゃ、私は屋敷のほうに行ってきます」  雅空はゆっくりと歩いていった。  富士乃は桜子のほうを向いた。 「桜子さんは、道頼からこの庭の改修について、どんなふうな指示を受けてはったのですか」 「とくに指示といったものはありませんでした。じっくりと時間をかけてやってほしいとおっしゃられましたけれど」 「そうですか。では、あなたの思うようにやってください。よろしくお願いします」 「はい」 「それから、代理口伝の証人になってくれはって、ありがとうございました。お蔭で、翼を文句なく、宗主にすることができます。あたしたち女では、どんなに齢をとっていても宗主にはなれないしきたりですから」 「男女雇用機会均等法の時代に、ちょっと不合理な気もしないでもないですけれど」  桜子は率直に思いを述べた。 「しかたがありません。伝統を守るということは、そういうことなのですから……女性の一人として心情的に抵抗がないわけやないですけれど、やむをえません。誰にかって、大なり小なり、あらがえないことってあるのやないですか」  富士乃はちょっと投げやりに言った。  雰囲気が気まずくなった。 「あの、別件なんですけれど、池に飛び込む前に携帯電話を投げ捨ててしまったんです。呼び出しコールをすれば、着メロが鳴ってすぐに所在がわかると思うんですけれど、どなたか携帯電話をお持ちやないですか」  日は沈みかけていて、ますます暗くなっている。 「下市が持っていると思います。すぐにこちらに来させますわ」  富士乃は、くるりと背を向けた。  わが子を失ったわりには、富士乃には冷静さがあった。しかし、投げやり気味に「しかたがありません」と言ったときの表情には、諦観《ていかん》に近いものが感じられた。  富士乃は、鶴雄、道頼という二人の子供を亡くしてしまった。そして、その前は、英太郎の愛人という日陰の存在だった。 (厳しい人生を送ってきはったに違いないわ)  人前では涙を見せない、という習性が身に着いているのかもしれない。  こちらに近づいてくる男の姿が見えた。下市だ。  景介が言っていたことが思い出される。下市は、久保井杏奈と親密な関係にあるようだ。そして、新葵流とも何らかの繋《つな》がりがありそうだ。 「携帯電話がお入り用だそうで、持ってきました」  下市はペコリと頭を下げた。  少なくとも、外見上は忠臣に映る。 「すみません」  桜子は、下市から携帯電話を借りて、自分の番号をプッシュした。  オモトの草の間から、SMAPの�ライオンハート�のメロディが鳴った。  思っていたよりも、遠くに投げていたようだ。 「ありがとうございました」  桜子は下市に礼を言いながら、携帯電話を返した。 「あ、いえ」 「下市さんは、この家にお住まいなのですか」 「いえ、私は桂家の人間ではありませんので、この近くに住んでおります」 「師範総長になられて何年になるのですか」 「八年になりますね」 「桂山流の一員にならはったのはいつからですか」 「二十二歳のときからですので、もう三十四年になります」 「男性で華道をしはるのは少数派やと思うんですけれど、そんなに若いときから関心を持ってはったのですか」 「いえいえ。私自身は華道にはほとんど縁のない人間だったのですよ。高校を出てしばらくは車のセールスマンをしていたのですから」 「それがどうして?」 「妻の影響です。妻はここで内弟子をしていましたから」 「じゃ、今の久保井杏奈さんのような」 「ええ。彼女とは違って、なかば家政婦的なところもありましたが」  下市は独身だと思っていた。ということは、杏奈とは不倫となる。 「きょう、京都駅前のデパートで新葵流の展覧会を見てきたのですけど、下市さんはあの流派についてどない思わはりますか」 「藪《やぶ》から棒に、どうしてそんなことを私に」  下市の小さな目がキラリと光ったように桜子には思えた。 「ビール瓶を花器にしたり、フラワーアレンジメントの手軽さを取り入れながらもそれとは一線を画したり、とにかく印象が強くて、この桂山流はどう考えてはるのかって思って……ほんまは宗主さんに尋ねたかったんですけど」 「さあ、流派にはそれぞれの良さがあると思いますが」 「将来的に、新葵流との提携といったこともあるんですか」  下市の顔色が、明らかに変わった。薄暗い中でも、はっきりとわかった。 「いったい誰から、そのことを」 「誰からって別に……単なるうちの思いつきです。今の時代は、銀行だって提携とか合併をするということが多いやないですか」 「あんた、ただの庭師じゃなさそうだな」  下市は値踏みするように桜子を見た。言葉づかいも粗野になっている。  桜子は回収したばかりの携帯電話を握り締めた。いざというときは助けを求めることができるぞというアピールだ。しかし、この桂園で襲いかかられたら、助けが来るまで逃げ切れる自信はない。桜子は、タイトスカートをはいてきたことをちょっぴり後悔した。 「亡くなった宗主さんが、言うてはりました。新葵流のスパイがいるかもしれないって」  桜子は出まかせを口にした。こんなときは攻勢に出たほうが、優位に立てると踏んだからだ。 「…………」  下市は桜子を睨《にら》みつけながらも、戸惑いを見せた。 「宗主さんは、気がついたことがあったら報告してほしいって、うちに頼んではったのです」 「おまえなんかに、おれの気持ちがわかってたまるか」 「どんな気持ちですか。桂家の部外者として、ずっと忠臣でいなくてはならないというしんどさですか」 「そんなのじゃない。地位も金も、欲しくはないんだ」  下市は桜子から視線をはずした。 「新葵流と結びついていることは、認めはりますか」 「おまえには関係ないだろ」  下市は吐き捨てるように言うと、踵《きびす》を返した。その背中が、なぜか物憂げに見えた。   18 第一容疑者 「やっていない。おれが書院に入ったとき、あいつは死んでいたんだ」  タケルはあくまでも否認した。 「だったら、なぜ逃げたんだ?」  竜彦も退かない。 「だから、つまらない疑いをかけられたくなかったって言っているだろ」 「書院に足を踏み入れたとき、すでに火はついていたと言ったな。それなら、消防署に通報するのが普通だろ」 「そんなことをしたら、おれがやったと思われるだけだ。宗主とは対立していたんだ」 「そのことについてだが、義父と義弟の合同葬儀で�犯人は桂道頼だ�と名指しをしたそうだな」 「あいつの仕業としか、考えられない。こっちはネタをつかんでいるんだ」 「ネタ?」 「政之が転落したことを証言した木村靖男は、道頼と面識があったんだ。木村が山菜を納入している料理屋の紹介で、ひと月ほど前に会っているんだ。料理屋に訊《き》いて調べたんだ。間違いない。あいつこそが、殺人鬼だ」 「そんな警戒すべき相手なら、なぜ、呼び出されてのこのこと出かけていったんだ」 「向こうが恭順の姿勢を見せたからだ」 「納得できないな」 「嘘なんか言っていない。おれが書院に入ったときは、もう宗主は死んでいて、火もついていたんだ。誰かがやったんだ。おれは、その罠《わな》に嵌《は》められたんだ。信じないなら、もう喋《しやべ》らない、黙秘してやる」  タケルは腕を組んで、プイと横を向いた。 (やれやれ)  竜彦は頭を掻《か》きながら、取調室の外へ出た。さっきからいくらやっても堂々めぐりだ。  自分が書院に入ったときに、道頼はすでに死んでいて、自分は第一発見者にすぎないとタケルは言い張る。火もすでに放たれていたと。  あくまで道頼のほうから呼び出してきたのであって、自分は疑いをかけられるのを恐れて逃げ出しただけだと主張を繰り返す。 (あそこまで否認されると、なかなか糸口が見つからない)  竜彦は、逮捕状を請求したときの確信が少しぐらついてくる思いがした。  廊下の端まで行って携帯電話を取り出し、桜子に電話をする。少し前までは「一般人には捜査のことは話せないよ」と言っていたのに、いつのまにか桜子に頼っている。幼いときがそうだった。いじめられっ子だった竜彦は、「助けなんかいらないよ」と強がっていても、結局は桜子に助けてもらっていた。 「はい」  桜子はワンコールで出てくれた。 「今、いいかい」 「ええ」 「もう一度、確認したいんだ。桂タケルが洛西桂園の門から出てくるのを見たあと、君は軽トラックを降りて洛西桂園に入ろうとして、そこで桂道頼からの電話を受けたんだね」 「そうよ。間違いあらへんわ」 「それを証明できないかな」 「証明?」 「桂タケルがなかなか容疑を認めなくて、困っているんだ」 「ちょっと待って」  ピッポッという音がする。 「うちが持っている携帯電話に、着信記録があるわ。午後二時一分よ」 「そうか」  書院の現場検証リストには、焼け爛《ただ》れた携帯電話があった。それを使って、道頼は桜子に助けを求めようとしたのだろう。 「タケルさんが現場にいたとしたら、道頼さんとしては『タケルにやられた……』などという電話はまずかけられへんでしょ。せやから、この着信記録は、タケルさんが出たあとで電話をかけたという証拠にならへんかしら」 「なるほど」  そのあたりから、タケルの供述の矛盾を衝《つ》けるかもしれない。  竜彦からの電話を終えた桜子は、一人で洛西桂園にたたずんでいた。  夜を迎えて、静けさが増している。 (今回のことで、得をしたのは誰だろう)  道頼の死だけでなく、政之や悟二朗が死んだことも含めて考えてみたい。  タケルにとっては、今のところは、利と言えるものはない。  悟二朗、政之、タケルをグループとして見た場合、二人が死んで、残る一人は逮捕された。つまり、悟二朗グループはほとんど総崩れに近い結果となった。  それでは、新葵流はどうだろうか。どうやら下市を使って提携話を進めようとしていた様子だが、今のところは成功していない。 (かりに新葵流の後ろ楯《だて》を得たとして、下市は桂山流の宗主になれるだろうか)  もちろん、翼もいなくなったとしての前提だ。  答えは、否だと桜子は思う。教えを新葵流風に�花器は問わない�と変えることは許されるだろう。教えというものは、時代に即して変わるものだ。けれども、十七代続いてきた宗主としての血筋をはずすことはむつかしい。それは憲法が国民主権に変わっても、天皇位に就く者が血統を欠かすわけにいかないのと似た構造だ。  桂家の人間ではない下市が、桂山流の宗主になることはできない。家元という制度はそういうものなのだ。 (それやったら、いっそのこと桂山流をつぶしてしまったなら)  新葵流としては、提携という迂回《うかい》をするよりも、桂山流をつぶしたほうが手っとり早いということになる。けれども、そのために桂山流の宗主候補を皆殺しにしなくてはならないのはバランスシートが合わない。  桂山流が瓦解《がかい》したなら日本全国にいる四十万人の弟子をすべて新葵流が取り込める、という保証はないのだ。たとえそれができたとしても、桂家の男たちを皆殺しにして得なくてはならないほどの儲《もう》けがあるものではない。 「松原造園さん」  桜子は女の声に振り向いた。  富士乃だった。 「まだ、ここにいはったのですか」 「ええ、いろいろと庭園改修の考えごとをしていたものですから」  本当は、改修以外のことばかり考えていた。 「そのことなんですけど、さっき申しましたことを撤回しに来ました」 「は?」 「あれからいろいろと考えたのですが、改修を中止しようと思いますのや」 「中止、ですか」 「舌の根も乾かないうちに恥ずかしいことどすねけど、やはり宗主が急に死んでしまって喪に服さなくてはならない時期に庭の改修のような祝いごとはようないと考えますのや」 「庭の改修は祝いごとやないと思いますけれど」 「けど、どちらかと言うたら、慶事になりますやろ。改修が終われば、関係者を招いての披露ということになりますでしょうし」  披露する場合もあれば、そんなことをしない場合もある。 「松原造園さんには、これまでの報酬とそれなりのキャンセル料をお支払します」 「いえ、キャンセル料なんて」  そんなものが欲しいわけではない。ただ、道頼の遺志は改修ではなかったのか、と思うだけだ。  それに、やはり庭園の奥の�欠け�が気になってしかたがない。これだけ不幸が続くと、あるいはあの�欠け�の凶相が影響しているのではないか、とも思いたくなる。 「せめて、庭園の奥の植栽だけでもさせてもらえませんやろか」 「申し訳ないけど、今は庭の改修をしている場合ではあらへんというのが本音なのです。宗主は非業の死を遂げてしまいました。次の宗主である翼は、たったの六歳どす。他の流派の興隆もあり、桂山流始まって以来の苦境の状態にあります」 「どうしても無理ですか」 「宗主を救おうとしてくれはったあなたを前に、さいぜんは言い出しにくかったのですが、やはりお断りしたほうがええと思いまして……」 「わかりました」  庭師が無理に改修継続を主張することはできない。あくまでも依頼主側の意向が優先する。 「えらい勝手なことを言いまして、申し訳ありません」  富士乃は頭を下げると、なかば逃げるかのように足早に立ち去っていった。  桜子は、なんとなく拍子抜けしてしまった。  富士乃はとりつく島もないといった感じだった。どこか不機嫌な印象もあった。 (何か気に障ることを言ってしもうたかしら……)  そんな記憶はない。 (あるいは富士乃さんは、誰かに何かを言われはったのかもしれへん)  富士乃よりも上の位置に立つ人物は、一人しかいない。大宗主の本妻だったみね子だ。  桜子はみね子とも顔を合わせたが、その機嫌をそこねるようなことを言ってしまったとは思えない。 (まあ、しかたがないか……)  桜子は自分を納得させようとした。後ろ髪を引かれる思いはあるが、これ以上はどうしようもない。   19 新たな事実 「認める気になったのかね」  竜彦は、タケルの前に座った。刑事から「容疑者が�検事を呼んでくれ�としつこいんです。まるでおれたちじゃダメだって言わんばかりに」と報告を受けて、竜彦は取調室に足を急がせた。もしかしたら、自供する気持ちになったのかもしれないという期待があった。 「そうじゃない。おれは、何もやっていない。嵌《は》められたんだ」  タケルはあっさりとその期待を壊した。 「だったら、どうして私を」 「あんたなら、信じてくれると思ったからだ……刑事にしつこく追及されてだんまりを決め込んでいるうちに、ふと頭を掠《かす》めたことがあったんだ。宗主を殺す動機を持った男がいる」 「何だって」 「宗主だけじゃない。桂の血を引く者に対して恨みを持っている男だ。よく考えてみたら、悟二朗さんも、政之さんも、宗主も、死んだのは、みんな桂の血を引く男たちだ」 「誰なんだ。その恨みを持つ男というのは」 「下市だよ。師範総長の下市規久男だ」 「え」  竜彦は一度顔を合わせているが、その限りでは実直そうな男だという印象を持った。 「奴は三回結婚して、三回離婚している。若いときに結婚した最初の女房は、桂家で家政婦のような仕事をしていた。その女は、鶴雄が病死したときに、大宗主から『すぐに異変に気づいていれば何とかなったかもしれない。なぜよく見ておかなかったんだ』と厳しく責め立てられ、神経を病んでしまった。それが、離婚の原因だ。最初の離婚がなかったならば、自分は人生をつまずくことはなかった……下市はそう今でも思っているに違いない」 「それって、何年前の話だ?」 「鶴雄は、三十二年前に死んだ」 「そんな昔のことを引きずるのは……」 「いや。下市は見てくれはおとなしそうに見えるが、陰湿で粘着質の性格だ。昔のことを今でも根に持っている。おれにはそれがわかる」 「たとえ、そうだったとして、どうして犯行を」 「だから、桂家の男を根絶やしにしたいんだ。大宗主が健在のときは、奴は手も足も出さなかった。忠僕のような顔をして、じっとチャンスを待っていたんだ。そして、大宗主が亡くなったあと、悟二朗さん、政之さん、そして宗主と、次々に手にかけた。姻族で世襲権のないおれをこうして殺人の犯人に仕立て上げて……あとは、あの翼が目標になる。それで、奴の計画は完成する。野放しにしておいちゃまずいぜ」 「ちょっと待て。捜査をするのは、こっちだ」  竜彦は手のひらをタケルに向けた。  たとえ恨みがあったとしても、そんな過去のことが三人もの人間を殺すという動機になるというのは、ちょっと首肯できない。 「なあ、信じてくれよ。おれじゃない。だとしたら、奴しか犯人は考えられない」  タケルは力説する。 「じゃ、あんたを呼び出したのは下市なのか? あんたは宗主に呼び出されて書院へ行ったんじゃないのか」 「下市の仕業だ。奴は宗主の声色を真似たんだ」 「しかし、あんたの話は矛盾していないか。悟二朗と政之は、どちらも宗主に殺されたと主張していたはずなのに、いつのまにか、下市が犯人になってしまっている」  タケルは道頼が�葬儀の様子を聞いた。これまでのことを詫《わ》びて、話し合いをしたい�と恭順の姿勢を示したから、書院に向かった……すなわち、タケルは、道頼が悟二朗と政之を殺害したことを認めたからこそ、行く気になったとタケルは話していた。 「矛盾じゃない。すべて下市がやったとしたら、説明がつくんだ。宗主がやったと見せかけて、全部下市が手を下したんだ」  竜彦は素直に受け入れることができなかった。タケルが御都合主義的に言い逃れをしているという気がしてならなかったからだ。ただ、下市のことは調べてみる必要はあるという気がした。  ナイフで首を刺し、灯油をまいて火をつけるというのは、かなり荒っぽくて、力のいる犯行だ。女では、ちょっとむつかしい気がする。事件関係者で、生き残っている男性は、このタケルのほかは、八橋雅空と下市規久男しかいない。六歳の翼はもちろん除外だ。 「マジっすか。作業は中止するんですか」  食事から戻ってきた景介は意外そうな顔をした。 「こんなところでジョークを言ってもしかたがないやないの」  桜子は洛西桂園の門の前で、景介を待っていた。 「せっかく始めたばっかりなのに……まだ剪定《せんてい》とちょっとした移し替えぐらいしかやっていないですよ」 「でも、それが施主さんの意向なんやから、どうしようもあらへんわ」  桜子も不満だが、いたしかたない。 「ゆっくりとやってください、って依頼だったのに」 「せやね。それが宗主さんの要望だったわ」  正反対の結果となった。 「桜子さん、何か気に入らないことをやってしまったんじゃないですか」 「そんなことはあらへんわ。さあ、片づけをして、撤収するわよ」  宗主の葬儀は別にして、もうここに来ることはないことになってしまった。 「雅空さんはどう思っているんですか。灯籠《とうろう》の据え付けもまだじゃないですか」  出てくるときに、雅空とは顔を合わせかけた。だが、彼は何も言わなかった。桜子を見かけると、まるで避けるかのように背を向けた。 「雅空さんは桂家の人間やないから、どうこう意見を言える立場にないんよ。心の中では、きっと不満に思っているでしょうけど」 「つまらない立場だな。おれなら耐えられないっすよ」 「景介君。言葉を慎みなさい」  ここは、洛西桂園の門前だ。まだ桂家の敷地だ。 「すんません」  たしなめたものの、景介の疑問もわからないではない。雅空はこの桂家の養子になったものの、そのあと養子縁組を解消され、実家には戻ることもできず、ずっと桂家の屋敷の隣にある別棟に住んでいる。桂山流の顧問という肩書は与えられているものの、これといった仕事はないようだ。そして、結婚もしていない。  景介がつまらないと感じるのも無理はない気がする。彼は洛西桂園が好きなだけで、ここに住んでいるのだろうか。八橋家を兄が継いでいるので実家には帰れないという事情はわかる。けれども、だからといってここに居続けなくてもいいのではないか。 「まあ、ろくに働かないでのうのうとしてられるってのは、魅力的と言えば魅力的ですけど」  桂山流と袂《たもと》を分かつことになると、どこかに就職して働かなくてはならないだろう。確かに、公家《くげ》の出である雅空には、額に汗する姿は似合わないかもしれない。しかし、働くのが嫌だからといった怠慢な人間には見えないが。 「景介君。ええ加減にせんとぶつわよ」 「桜子さん。機嫌悪いからって当たらないでくださいよ」 「当たってへんわよ」 「こんなときは、ぐいっと一杯行きませんか」 「けど、車の運転があるし」 「劇団の駐車場に預けていったらいいじゃないですか。久しぶりに、あのタコオヤジのいる居酒屋へ行きたくないですか」  劇団時代は、稽古を終えると、よく飲みに行ったものだ。みんなからタコオヤジと呼ばれる店主が経営する小さな居酒屋には、数え切れないくらい足を運んだ。そして、演劇談義に花を咲かせたものだ。 「せやね。久しぶりに行ってみよか」   20 月の名所  桜子は軽トラックを運転して、桂大橋《かつらおおはし》を渡った。いつもなら国道九号線から西大橋《にしおおはし》を通るが、今夜は居酒屋に寄るのでルートが違う。 「きれいな月が出ていますね」  桂川の川面が、ほぼ満月に近い月によって青白く照らされている。 「洛西は月が映える場所なんかもしれへんね。桂離宮もこの近くやし」 「せっかくだから、桂離宮の前を通ってください。僕は場所をよく知らないんです」 「もうちょっと前に言ってよ。今、通りすぎたばかりなんやから」 「あ、すみません」 「それに垣根しか見えへんわよ」 「じゃ、いいっす」 「けど、戻ってあげるわ。今夜の月はじっくりと観賞する値打ちがありそうやから」  桜子は、桂大橋を渡ったところで、軽トラックをUターンさせた。 「桜子さん。イライラしてませんか? 安全運転で頼みますよ」  景介は帽子を押さえる。 「イライラはあらへんけど」  正直なところ、手のひらを返されたような突然の打ち切りのショックは残っている。何しろ、理由がわからないのだ。  桂大橋をさっきとは逆方向に渡って、桂川沿いの道を北に走る。 「あの垣根の向こうが、桂離宮よ」  桜子はさらに少し走って、高さ二メートルほどの淡竹の垣根が続く狭い道に軽トラックを押し入れた。そして、サイドブレーキを引く。 「やたら、静かですよね」  まるで、切り取られた空間にぽっかりと入り込んだようだ。 「夜間に、ここに来たのは初めてやけど、やはり月の名所やね」  桜子は車窓を開けた。  このあたりの空気が澄んでいるのか、月が淡白く見える。 「月って、きれいなんだけれど、どうも存在が薄いですよね。いつも太陽の陰に隠れているって感じですよね」 「けど、まじめに毎日満ち欠けを繰り返しているわ」  桜子はじっと月を見つめた。  桜子はこの桂離宮を造営した八条宮のことを、思い起こした。皇室に生まれた彼は、豊臣秀吉の養子になりながらも結局その跡を継ぐことなく、そしてその過去があったゆえに徳川家康の反対にあって、皇位を継承することもできなかった。すなわち、関白にも天皇にもなれなかった悲運の男なのだ。 (雅空さんは、八条宮と似たところがある)  彼は、大宗主と言われた桂英太郎の養子になりながら、結局養子縁組を解消されて宗主への道は消えた。そして、実家のほうにも戻れないでいる。  八条宮は自分が歴史の表舞台に出られなかった複雑な思いを、この美しい離宮を造る情熱に変えて注ぎ込んだと言われている。 (雅空さんは洛西桂園が好きやけど、とても八条宮ほどやない)  洛西桂園の改修はあくまでも、宗主の道頼が決めた。雅空としては、具体的な改修プランは、灯籠を雪見から織部に変えるくらいしか持っていなかったようだ。そして、こうして改修中止が決まっても、彼はそれに異を唱えようとはしていない。 (八条宮は、秀吉の甥《おい》である秀次《ひでつぐ》が後継者になることで、事実上の引退をしていく)  そのあたりも、雅空は八条宮に似ている。政之が英太郎の養子となり後継者の地位を占めたことで、彼は桂家にとっては必要のない人間となった。 「先輩、何を考えているんですか」 「今回の三つの事件がすべて殺人やったとして、力のある男性やないと犯行はむつかしいやろね」  政之は山道から保津川に転落している。悟二朗は竹林で首吊り死体となって発見された。そして、道頼はナイフで首を刺されたうえに、灯油をかけられ火を放たれている。いずれも、物理的な力が必要だ。とくに二つめの事件では悟二朗の体は宙吊り状態にあった。並みの男性の力でも、実行は困難なように思える。 「そうですね。女性だと、桜子さんくらいの腕力がないと」 「何言うてんのよ。うちでも無理やわ」 「今回の事件関係者は限られていますね。とくに男性となると」  その中で、生き残った大人の男性はタケルと下市と雅空の三人だけだ。 「かなり、絞り込まれることになるわ」 「だけど、三件とも他殺なんですかね。三つめは、宗主さんがああして先輩の電話に救いを求めてきたんだから殺されたのは間違いないけれど、一つめはノイローゼによる自殺もしくは事故死、二つめも自殺というのが警察の見解として固まりつつあったじゃないですか」 「せやね」  警察の見解を前提にすると、殺されたのは道頼だけだ。  となると、道頼を殺した動機はどこにあるのだ。道頼が死んで、宗主の座は翼へといく。次は、その幼い翼から、宗主の座を取り上げるつもりなのか。 (動機を利益だけと考えるのは、よくないわ)  桂家に出入りするようになって、今の桂山流の家元という地位が以前に比べてずいぶんと下がっていることを知った。今後、大きく伸びていくという要素も見当たらない。殺人までして、狙うほどの経済的利益はないかもしれない。 (だとしたら、恨みかしら)  桜子は、天上の月をじっと見つめた。常に、太陽に隠れるべき運命の月は、こうして太陽が空から姿を消して初めて、その存在を人に知ってもらうことができるのだ。   21 焼けた死体  道頼の死体検案書が、竜彦の手元に届いた。  検事として、これまでかなりの死体検案書を読んできたが、今回のものはそのうちでもかなり凄惨《せいさん》な部類に入った。遺体の焼損が激しくて、ほとんど黒焦げと言ってもいい状態だった。  検察事務官が報告する。 「幸いなことに、遺体の顔はあまり焼けていませんでしたので、身元確認はできました。奥さんの千代さんにも見てもらいました。念のため、被害者の歯型を道頼さんのいきつけの歯科医院でカルテと照合しましたが、一致しました」 「詳しい死因について、法医学の先生はどう言っている?」 「肺の中が比較的きれいだったので、おそらく先に首を刺されて失血したことが死因だろうけれど、火をつけられたのは、時間的には極めて近接していると考えられるということでした」  死んでから焼かれたときは、息を吸わないから肺に煤《すす》がそれほど入り込まない。それに対して、焼死のときは肺に煤が多量に入る。 「つまり刺してからすぐに灯油をかけて、焼いたということだな」 「はい。先生も、おそらくそうだろうと話していました」 「残虐なやりかただな。こいつは、恨みか」 「かもしれませんね」  刑事の一人が、報告に来た。 「検事から指示のあった下市規久男の件ですが、最初の妻が神経を病んで精神病院に入ったというのは、どうやら本当です。妻の友人から複数の証言を得ました。時期は、鶴雄が亡くなった三十二年前です。それで、下市は二年後に離婚しています」 「妻は、そのあとどうなった?」 「精神病院は退院して、実家に帰りました。再婚歴はありません。去年、病死しています」 「去年か」 「検事。もしかしたらかつての妻が死んだことで、怨嗟《えんさ》の気持ちが再熱したということは考えられませんか」  検察事務官が、口を挟んだ。 「だが、憎しみを感じたとしても、その対象は、あくまでもかつての妻を責め立てた大宗主だろう。道頼に対してというのは、お門違いじゃないか」  道頼は、鶴雄が亡くなった翌年に生まれているのだ。 「道頼に対しては、別の恨みがあったのかもしれません。あるいは前の宗主とどこかでダブるところがあって、心の底で怨恨が増幅されたという可能性はありえませんかね」 「ありえないわけではないが」  竜彦は死体検案書を見つめた。たとえそうだとしても、荒っぽいやりかただ。  竜彦は、桜子の携帯電話にかけた。 「ちょっと待って。今運転中やから、車を寄せるわね」 「すまないね。どのあたりを走っているんだ」 「桂離宮のそばよ。これから久しぶりに劇団の近くに行くところよ」 「何度も電話をして悪いね。桂家は、閉鎖的な人間関係だから、第三者である君の存在は貴重だ」 「あら、ずいぶん持ちあげてくれるのね。最初のころは『一般人に捜査のことは話せない』って言っていたんやなかったの」 「うん。まあ」 「いけずをするつもりはあらへんわ。捜査には市民の協力がいるってことがわかってくれたらええのよ。それで、何が知りたいの?」 「道頼が誰かに恨まれていたかもしれないという可能性を、検討しているんだ。何か思い当たることはないかな」 「タケルさんの逮捕で決まり、と考えているんやないの?」 「だから、可能性を検討している。そうでないとわかったなら、さらにタケルを追及するつもりだ。ただ、無理やり彼を犯人と決めつけることはしたくない」 「タケルさんはまだ犯行を認めてへんのね」 「師範総長の下市規久男を調べろと彼は主張している。宗主に対する恨みを持っていると言うんだ。何か心当たりを感じたことはなかったかな」 「箱書を乱発しすぎるって、苦言を呈していたことがあったけど」 「箱書の乱発?」 「それから、新葵流と下市さんが結びついている可能性があるわ」   22 消えゆく寂しさ  竜彦からの電話を終えたあと、桜子は軽トラックを運転しながら、考えをめぐらせた。  確かに、桂家の関係者という限られたクローズな人間関係だ。しかも、道頼を殺害できたのは男だとしか考えられない。そうすると、タケルと雅空と下市の三人しかいない。  そのうち、雅空には動機が成り立たない。タケルには動機がありそうで、実はなかなか見当たらない。道頼がいなくなったとしても、タケルには相続権がないのだ。もちろん、下市にも相続権はない。ただ、彼には新葵流との提携話があるが。  もしも、動機が宗主としての地位でないなら、次に考えられるのは怨恨だ。  下市は桂家に対して恨みを持っていた可能性が出てきた。  ただ、そこまで恨みを長く持っていられるものだろうかという疑問はある。 (わからへん)  桜子は、首を振った。  久しぶりに劇団の稽古場に軽トラックを停めた。  そして、すぐ近くにある居酒屋の縄|暖簾《のれん》をくぐる。 「おや、桜子さんやおまへんか。元気にしてはりましたか」  タコオヤジはつるんとした禿頭《とくとう》をてかてかに光らせて、笑顔を向けた。 「ご無沙汰《ぶさた》してます」  懐かしい気持ちになりながら、カウンター席に腰を下ろす。景介はその横に座った。  劇団にいたころは、よくここを訪れて、酒を飲みながら仲間たちとともに演劇談義に花を咲かせたものだ。  けれども、その当時の仲間たちで芽が出た者はいない。親から説得されて泣く泣く田舎に帰った女もいれば、結婚して扶養家族ができたために平凡なサラリーマンになった男もいる。あるいは�演劇に限界を感じた�という短い書き置きを残して、黙って姿を消してしまった男もいる。成功する確率の低い世界だ。 「退団したあとも、こうして訪ねてきてくれるのは嬉《うれ》しいね」  タコオヤジは注文も聞かずに、コップ酒を差し出す。あのころの桜子は、いつもコップ酒だった。 「うちの同期生連中は来てへんの?」  桜子の同期生は四人だった。桜子を含めて四人ともが、すでに劇団を去ってしまっている。 「全然来はらしませんな。散り散りばらばらです」 「それは、寂しいわ」  桜子はコップ酒を一口飲んだ。懐かしい味だ。 「わしも寂しいでんな。みなさん、ほんまによう頑張ってはったということを知っているだけに」  タコオヤジはつき出しをカウンターテーブルに置く。 「何だか、劇団員をやっていく自信が減っちゃいそうな話ですね」  それまで黙っていた景介が、頭を掻《か》く。 「若い人は、そんなことを考えたらあきまへんで。未来はあると思うてチャレンジせんことには」 「でも、現実は厳しいっすね」 「それでも、夢を追いかけはる姿勢には共感できまっせ。みんな、目が生き生きとしてはります」 「だけど、いつまでも夢ばかり追いかけているわけにはいかないよな。霞を食って生きていくことはできないんだから」  景介はしんみりとした声で言った。  桜子はつき出しをつまんだ。 「花は散るからこそ美しいって、言葉があるんよ。ずっと咲いている造花なんか、誰も愛《め》でへんやないの」 「そういうものかもしれまへんな」  タコオヤジが頷《うなず》く。 「限りがあるから、精一杯咲こうとする。それが、美しいんよ」  桜子はコップ酒を飲んだ。   23 秘伝の教え 「次の信号のところで停めてください」  桜子はかすれた声で、タクシーの運転手に告げる。  酔えそうで酔えないまま、桜子は帰途についた。  父の徳右衛門に、桂家から�もう来なくていい�と言われたことを告げなくてはいけないのも、気が重い。 「ただいま」  そっと家の中に入る。 「えらい遅かったのう」  徳右衛門は、車椅子で玄関にいた。どうやら桜子の帰りをじっと待っていたようだ。 「ごめんなさい。景介君と久しぶりに飲みにいったから……ちゃんとタクシーで帰ってきたから心配しないで」  桜子はすまない気持ちになった。せめて電話くらいはしておけばよかった。 「そんなことは心配しておらん。明日の仕事に影響が出んものかと気になっておるだけじゃよ。助手とおまえの二人ともが夜更かしとは」 「そのことやけど、桂さんから『もう庭園の改修は必要ない』と言われたの」 「そうか。それなら、何時になろうとおまえの自由じゃ」  徳右衛門は車椅子を反転させかけた。 「お父さん。途中で打ち切りになったことを叱らないの」 「おまえに何か、庭師としての落ち度はあったのか?」 「あらへんわ。一生懸命やったわよ」 「それじゃったら、しかたがない。向こうも宗主さんが亡くなられたのやから、庭の改修どころではないのかもしれん。われわれの役目は、施主さんの家にやすらぎのための空間を作ることじゃ。しかし、施主さんによっては、やすらぎどころではない場合がある。そんなときは、じっと時を待つしかない」 「ええ」  桜子としては、代理口伝の証人になるなど、庭園以外でも桂家のために働いたと思っている。いったんは改修継続の同意を得たのだが、覆された結果となった。 「お父さん、うちには家元の教えみたいなものはないの」 「家元の教え? なんじゃそれは」 「松原流秘伝の造園術のようなものはないのかしら」 「何を言い出すかと思うたら」  徳右衛門は眉毛《まゆげ》を八の字に下げた。「わしら庭師が同業者同士で、木の植えかたや切りかたについて情報交換をしょっちゅうしておることは知っているじゃろ。秘伝の教えなんてもんはありゃせんのじゃ。もしもお客さんに尋ねられたときは、知っていることは全部話す。それが庭師の誠意なんや」 「せやね」 「強いて言うなら、木の気持ちになって考えることをわしは親からよう叩《たた》き込まれたが、そんなことは秘伝でも何でもない」  桜子もそのことは何度も徳右衛門から言われた。  木の気持ちになれば、枝を切ってほしいかそうでないかは、おのずからわかってくる。 「おまえに教えられることはすべて教えた。もうとっくに免許皆伝じゃよ。そいじゃ、わしは先に寝るぞ」  徳右衛門は車椅子の向きを変えた。 「はい。遅うなってしもて、かんにん」  桜子は、施錠を確認するために門扉のところへ戻った。  いったんは許されたはずの改修継続が、なぜダメになったのかはわからないままだ。  確かに富士乃は「よろしくお願いします」と言った。それなのに、その日のうちの撤回だ。  その間に、下市に協力してもらって携帯電話を捜し出し、そのあとそれとなく下市に新葵流のことを訊《き》いただけだった。 (あのことが影響したんやろか——)  桜子は、眠気を感じながら、施錠を確認した。  一本の電話で、桜子は起こされた。 「おはようございます。毎度おおきに」  取引のある庭石材店からだった。 「あ、おはようございます」  寝ぼけまなこで時計を見る。朝の十時少し前だ。まだアルコールが残っているのか、頭が少し痛い。 「灯籠《とうろう》なんですけど、いつ納入したらいいですか」 「あ、すみません。連絡するのを忘れてました。直接施主さんのところへ持っていって、そちらで据え置きをしてくれはりますか」 「えっ、それでいいんですか」 「はい」 「じゃあ、支払いもそちらで受け取っていいということですか」  庭師が仲立ちしたときは、仲介手数料に当たるものをもらうことが少なくない。今回、紹介したのはあくまでも桜子だから、そのことを庭石材店は気遣っているのだ。 「ええ、それで結構です」 「わかりました。じゃあ、そうします」 「よろしくどうも」  桜子はあくびをかみ殺しながら、受話器を置いた。  庭石材店に頼んでおいて、途中で庭師が離れるということはそうあることではない。「えっ、それでいいんですか」と驚くのも当然だろう。 (けど、なんでそうなったのかはわからへんのよね)  立ち上がった桜子は、伸びをした。  いくら仕事がなくても、日曜日ではないのだから時計は目覚ましのセットをしておくべきだった。世間ではとっくに活動が始まっている時間帯だ。 (うん?)  桜子は時計を見つめた。  こうして朝起きたときに、済んでしまった時間のことはその人間には意味がない。しかし、他者にとってはそうではない。  時間というのは、そんな相対性がある。 (改修継続の許可を受けた以降に問題があったのではなく、それ以前に問題があったとしたら)  許可を出し、それを撤回したのは富士乃だった。許可をしたときの富士乃は知らなかったが、そのあとで何かを知って撤回をするということもあるのではないか。  すなわち、桜子にとっては許可を受ける前の行為であったとしても、富士乃にとっては許可をする時点では知らなかったという場合だ。 (けど、そんなことって)  桜子は記憶をたどった。  雅空の住む別棟で意識を取り戻した桜子は、竜彦の事情聴取を受け、そのあと燃えた書院の柱を杖《つえ》で叩《たた》くみね子を前にどうしようもなかった。それからいったん家に帰り、服を着替えて出直したあと、洲浜のところで雅空と出会って鶴雄のことを訊《き》いた。そこへ、雅空を探していた富士乃が現われた。富士乃に改修継続の許可を得たのは、そのときだった。 (富士乃さんは、あとで雅空さんからうちとの会話の様子を聞いた……そして、翻意を決めた)  そう考えることはできなくはない。  あのときの雅空の「つらい日に、つらいことを訊かはりますね」という言葉が、耳に残っている。 (けど、なんで雅空さんにとってつらいことなの?)  桜子は立ったまま、じっと考え込んだ。   24 豊臣秀次の墓 「先輩。眠いっすよ」  景介は目をこすった。 「せやから、眠気覚ましのドライブに行くのよ」  劇団の駐車場まで軽トラックを取りに行った桜子は、その足で景介のアパートへ寄って、彼を起こした。 「まさか、ぽしゃった仕事が復活したんじゃないでしょうね」 「それはあらへんけど、とにかく助手席に乗って」  桜子は一つの仮説を得た。それを検証するためには助手が必要だ。 「どこへ行くんですか」  景介は髪の寝ぐせを気にしながら、軽トラックに乗った。 「京都の、ど真ん中よ」  桜子はアクセルを踏んだ。  桜子の運転する軽トラックは、鴨川沿いの川端通を走る。 「鴨川の河原って、昔は処刑場やったのは知ってる?」 「何かで聞いたことがありますね。石川五《いしかわご》右衛門《えもん》の釜茹《かまゆ》でが行なわれたんじゃなかったですか」 「そうよ。石川五右衛門だけじゃなくって、石田三成《いしだみつなり》も小西行長《こにしゆきなが》もこの鴨川の河原で処刑されたのよ。せやから、京都随一の繁華街である河原町って名前も、ほんまは怨念《おんねん》のこもった呼び方かもしれへんのよ」  桜子の運転する軽トラックは鴨川に架かる三条大橋を渡って、河原町通の手前にある木屋町通のところで止まった。 「これだけ多くの人が通っていながら、ほとんど気づかれていないお寺があるのよ」  桜子が景介にそう言って教えた、雑踏と店舗に囲まれた寺院は、瑞泉寺《ずいせんじ》であった。夜ともなれば、ネオンと酔客とカップルがあふれる三条木屋町に、まるで場違いな感じでひっそりとたたずんでいる。 「ここって、何のお寺なんですか?」  繁華街にあるだけに、スペースはけっして広くはない。 「豊臣秀次のお墓があるのよ。実際に秀次の亡骸《なきがら》が埋めてあった塚は、鴨川の洪水で流されてしまい、高瀬川を開削した角倉了以《すみのくらりようい》によってここに建立されたそうだけど」  桜子は境内に入っていく。  大きな六角石塔が一つ置かれ、その手前に小さな墓石がずらりと一列に並んでいる。 「うわっ。これですか」 「大きなのが秀次のもので、あとはその妻子のものよ」 「じゃ、一族皆殺しってことですか」 「せやね。根絶やしと言ってもええわね」 「どうしてそんなことに……」 「秀吉は自分の子供が生まれると、それまでの後継予定者だった秀次に謀反の疑いをかけて、自刃させるのよ。そして、その妻子たちは三条河原で全員が斬首《ざんしゆ》の刑に処せられる。その数は、三十九人に及んだと言われているわ」 「三十九人も……きつい話ですよね。なんかこうしていても、ぞぞっと怨念みたいなものを感じちゃいます」 「このことがあるから、秀吉は大阪での人気は抜群だけど、京都では今一つなのよね。甥《おい》をいったん後継者に決めておきながら、強引に根絶やしにしたんやから」 「そりゃ、わかる気がしますね。残酷ですよ」 「京都人の脳裏には、この話はかなり刷り込まれてると言えるわ」  桜子は秀次の六角石塔を見つめた。 「この秀吉をめぐる人間関係と、とても似たケースが、桂家であったでしょ」 「あ、そうか。甥の政之さんが、秀次に該当するんですよね」 「大宗主と呼ばれた桂英太郎さんにはなかなか子供ができずに、甥の政之さんを後継予定者にする。ところが、英太郎さんと愛人の富士乃さんの間に、鶴雄さんが生まれる」 「ほんとだ。関係は、そっくりだ」 「生粋の京都人である政之さん、それにその父親である悟二朗さんには、この秀次一族斬殺刑のことが頭のどこかに引っかかっていたはずだと思うのよ」 「皆殺しになるかもしれないって懸念を持ったって、ことですか」 「現代に皆殺しはできないけれど、後継者の変更と除名はできるのじゃないかしら」 「そうか」 「そして、英太郎さんにとっては妾腹《しようふく》とはいえ長男である鶴雄さんが、死亡する。三十二年前のことだけど、今回のすべてのことは、その三十二年前のことに端を発しているという気がするのよ」 「でも、三十二年も前のことでしょ」 「桂山流の長い歴史に比べたら、三十二年というのは短いくらいよ」 「そりゃそうですけれど」 「その長い歴史を受け継ぐという、いかにも京都的な事情が背景にあったんじゃないかしら」 「京都的な事情か」 「さあ、行くわよ」 「どこへ?」 「これから、検証に行くわ。まだ仮説の段階だから」 「仮説……そんなの、いつできたんですか」 「うちは、桂家に庭園改修のために入るようになり、事件に関心を持つようになったら途中で解雇同然となった。つまり、うちはあくまで証人役を果たすことだけが求められていたのだって、気づいたんよ。閉鎖的な人間関係における証人役ということに視点を置くと、これまで見えなかったものが見えてきたのよ」  第四部 竹の訴え——解決編   25 伝統の重み  桜子は、政之の遺体が見つかった保津川の河川敷に立っていた。 「景介君、そこからは見えへん?」  桜子は携帯電話に向かって喋《しやべ》る。 「見えませんね」  景介が答える。  桜子は、目撃者である木村靖男に会って、政之が転落するところを見たという場所を教えてもらった。木村は「いろんな人が、よう聞きに来なさるのう」と言いながらも、親切に教えてくれた。木村の話によると、タケルが「おまえは宗主から金をもらって嘘の証言をしたのだろう」と追及してきたことがあるということだった。 「景介君、もう少し位置を移動してよ」  景介は木村が目撃したと言う場所にいた。 「了解」  景介は足元に気をつけながら慎重に歩いていく。 「ここまで来たら、先輩の姿が見えますよ」  桜子は山のほうに目を凝らした。中腹の山道から手を振る景介の姿が桜子にもわかった。 「さっきのところから、距離にしてどのくらい?」 「五十メートルくらいですよね」  保津川が曲がっているため、木村が目撃したところからは、河川敷が見えないのだ。河川敷だけでなく、対岸側の山道の様子も窺《うかが》いにくい。 「もし、景介君が今いる位置に木村さんがいたなら河川敷まで見えたのよね」 「ええ、見えますね」  少し手前だったために、転落した政之が河川敷に落ちたところまでは見えなかったのだ。 「じゃ、川岸へ降りてきて」 「簡単に言わないでくださいよ」  確かに山の中では、歩くのは苦労する。とくに降りるときは、下手をすると足を踏み外しかねない。 「ゆっくりでええわよ」  桜子のほうは、逆に河川敷から上へ向かって登り始めた。  山の斜面に生い茂る木の幹をつかみながら、一歩ずつ降りていく。このあたりは、檜《ひのき》や杉といった針葉樹林が多い。 (まるで猿みたい……)  桜子は作業ズボンをはいてきてよかったと思った。 「あれ」  柏《かしわ》の幹をつかもうとした桜子は、その枝に白い竹ヒゴのようなものが引っかかっていることに視線を止めた。ここ一帯には竹はまったく自生していない。  桜子は手を伸ばした。やはり竹ヒゴだった。 「景介君。どこにいるの?」  桜子は携帯電話に向かって話しかける。 「まだ降りたばかりですよ」 「ちょっと急いでよ」 「さっきは『ゆっくりでええわよ』と言ったじゃないですか」 「かんにん。状況が変わったのよ」 「先輩。こんな近くまで来て、大丈夫っすか」  桜子は、洛西桂園に隣接する竹林の入り口に軽トラックを停めた。洛西桂園に出入りしていたときは、いつもここに停めていた。 「見つかったときは、そのときよ」  桜子は意に介さずに、竹林の中に入っていく。 「ここの竹林は、みんなマダケよ」  そのことを教えてくれたのは、宗主の道頼だった。彼は、桂山流の生け花に使う竹は毎朝ここに足を踏み入れて採取するという話をしてくれた。竹のほうから�自分を使ってくれ�と言ってくるとも話していた。 「道頼さんがいなくなって、ここの竹はどないなるのかな」 「実質的には代理口伝を受けた千代さんが、受け継いで管理をしていくのじゃないですか」 「せやね。けど、受け継ぐというのは、本当にたいへんなことやわ」  秘伝など何もない松原家でも、徳右衛門から受け継いだことで、桜子の肩にはかなりの重圧がかかっているのは事実だ。ましてや、桂山流は三百年を超える伝統を持つ。 「僕ら演劇をやっている者は、伝統を打ち破れと言われますけど、それとは正反対なのかもしれませんね」 「そのとおりよ。せやから、伝統に囚《とら》われることの多い京都では、なかなか新しい演劇が生まれにくいのじゃないかな」  桜子のいた劇団の経営はいつも赤字状態だ。 「どうして京都人はそんなに伝統に囚われるのですか」 「京都では続けてきたことをやめてしまうと、口さがない陰険な批判をされるのよ。『あの人の代で、せっかくの店の暖簾《のれん》を降ろしてしまわはった』ってね」 「そこらへんが、東京出身の僕には理解しがたいところですね」  箱書に関しても、景介にはわかったようなわからないような部分があった。箱書のある花器を持っていないと、�お花の先生をしてはるのに、ろくなもんを持ってはらへん�と陰口を叩《たた》かれるといったところは、なかなか腹の底では理解できない。 「東京人もええかっこしいだと言われますけれど、また違うんですね」 「失礼な言いかたになるかもしれへんけど、東京は本をただせば、大半は地方出身者の集まりでしょ。京都は基本的に土着の人間の町よ。由緒とか家柄がいまだに幅をきかしているし、家名のことを人一倍気にするのよ」 「平成の現代でもですか?」 「表面的には問題にしていないようで、ほんまのところはせやないのよ」 「やっぱり、まだよくわかんないですね」  二人は、悟二朗が竹林で首を吊っていた場所まで、やってきた。 「ここやったわね」  あのとき第二発見者だったわりには、桜子は自信がない。 「ええ。確か、このへんです」  景介も頼りない。  それだけ、光景が変わっているのだ。その原因は、竹の生長だ。しばらく来ないうちに、若竹は大きく伸びている。タケノコは地上に顔を出してからおよそ三カ月で成竹し、そのあとは高さも大きさも変わらない。すなわち、竹は一生分の生長を、たった三カ月で遂げてしまうのだ。 「竹の生命力はすごいわ」  桜子は改めて感心した。   26 枯れを呼ぶ花 「え、僕が呼んでくるんですか」  景介は聞き直した。 「お願い……うちやと警戒されるかもしれへんでしょ」 「弱ったな。じゃ、もしかして訊《き》き役も僕なんですか」 「うちは、様子を窺《うかが》わせてもらうわ」 「それって、しんどい役目ですよ」 「そういう経験も演劇のためのこやしになるって、思たらええやないの」 「また、勝手な理屈をつけて」  景介は肩をすくめながらも、頼まれた用件を引き受けた。  桜子は風水盤を取り出して、方角を確認した。  そして、艮《うしとら》(北東)を背にして立った。艮は鬼が出入りするので鬼門だとされてきた方角だが、それは裏を返せば強いパワーがそこに流れているということになる。そういったパワーをうまく活用することを、昔の人たちはやってきた。たとえば、関東で平将門《たいらのまさかど》の乱が起きたとき、危機感を抱いた朝廷は鬼門に位置する比叡山の僧や陰陽師《おんみようじ》たちに平将門を討つ呪詛《じゆそ》の祈祷《きとう》をさせた。  そして桜子は、集中力と洞察力が高まると言われる紫色のアメジストの指輪をはめた。  どちらも桜子の探偵儀式だが、迷信だと言われればそれまでだ。けれども、ものごとに運不運がつきまとうことは否定できないことである。だから、多くの人がゲンをかつぎ、寺社の拝殿の前では手を合わす。  桜子が携わっている庭園にはいろんな効用があるが、その一つに、自然の中に生きている自分の小ささを自覚するということがある。悠久で美しい自然に比してみると、人間ができることはそんなに大きくはない。だからこそ、人間は精一杯のことをして、あとは天にまかせるという考えを持つし、神や仏にすがろうというある意味では純真な気持ちになれるのではないだろうか。  しばらくして、景介が屋敷の中から、久保井杏奈を洛西桂園の池の前まで連れてきた。 「どうもすみませんね」  景介は頭を下げる。桜子はアカマツの陰で、そのやりとりを窺っている。 「何の用なの? こんなところまで」  杏奈は不機嫌そうだ。 「他の人に聞かれちゃまずいと思いまして」 「どういう意味?」 「単刀直入に訊きます。あなたは、東京の新葵流とどんな関係なんですか」  杏奈は形の良い眉《まゆ》をひそめた。だが、言葉は発しようとしない。 「実は、あなたが下市さんと密談をしているところを見てしまったんですよ。その中で、新葵流との提携が話題になっていましたでしょ」 「知らないわ」 「僕はこの耳ではっきりと聞きました」 「証拠なんかどこにもないじゃないの」  桜子はここがタイミングとばかりに姿を見せた。 「あんましシラを切らはらへんほうがええのとちゃいますか。あなたのことを桂家の人たちに告げようなんて思うてしません。ただ、ほんまの事実関係が知りたいのです」 「どういうことなの」  杏奈は睨《にら》むような目を桜子に向けた。 「失礼ですけれど、あなたと下市さんとは単なる師範総長と内弟子という間柄やあらしませんね」 「…………」 「実は、僕はあなたと下市さんが言い争っているところも耳にしているんです」  景介が口を挟む。 「まるでスパイね。どこまで探れば気がすむのよ」 「そんなつもりじゃなくって、たまたま出くわすことになったんです」 「まあ、いいわ。もう下市とは終わったんだから」  杏奈は小さく言った。 「新葵流との提携話は壊れたんですか」 「あの人にあれ以上のやる気がないんだからしかたないわ」 「桂山流の情報を提供し、提携の仲立ちをしようとしたのは、あなたではなく下市さんのほうなんですね」 「そうよ。あたしはその話に乗ろうとしただけ」  杏奈は少し投げやりな顔つきになった。 「失礼ついでに、お尋ねします」  景介が軽く頭を下げた。 「あなたのような美しい人が、どうして五十過ぎの下市さんと、という素朴な疑問です。下市さんは過去に奥さんを三人もらったそうですから、女性の扱いがうまいのだとは思いますけれど」 「自分でもよくわからないわ。桂山流に飽き飽きしたことが原因かしら」 「飽き飽き?」 「一族でなければ宗主になれないとか古いしきたりがあって、それでいてその宗主の座をめぐって身内同士で争いがあるとか、醜いじゃないの。代理口伝の制度だって、形式主義もいいところだわ。秘伝なんて、実はたいしたものじゃないはずよ。宗主以外の人間に口承できるんだから」 「だったら、なんで内弟子なんかになったんですか」 「若いころはそんなことを知らなかったからよ」 「あの杏奈さん。うちからも、失礼なことを訊かせてください。下市さんとはずっと以前からなんですか。そんなふうにはお見かけしませんねけど」 「ここ一年といったところよ」  杏奈はサバサバしていた。下市とのことはもう踏ん切りがついたようだ。 「あなたを内弟子にしたのは、大宗主の英太郎さんですね」 「そうよ」  杏奈は内弟子として十年以上のキャリアを有していた。 「大宗主さんは、あなたを富士乃さんに続く第二の愛人とした……そうやないのですか」  それが桜子の出した推論だった。  なぜ彼女がただ一人の内弟子として桂家に住み込みのような形でいるのか、それが前から疑問だった。その地位を得るには、桂家の絶対君主であった英太郎の承認もしくは同意が要ったはずだ。いや、同意や承認といった程度のことではないもっと強いものがあった気がする。  英太郎には、すでに富士乃という愛人がいた。富士乃は鶴雄、道頼という次の宗主になる二人の男児を生んだ。けれども、英太郎はそれでこと足れりと考えていたとは限らない。鶴雄が不慮の死を遂げていただけに、さらに別のスペアの子供を求めたという可能性は考えられる。もちろん、富士乃よりも若い愛人がいればという男としての欲求もあっただろう。さらに、富士乃が本妻であるみね子と一対一の張り合いをしないためにも、第三の女の存在が必要だと考えたかもしれない。  豊臣秀吉にも、淀君《よどぎみ》のほかにも側室の女性がいた。 「いけないことだと言いたいの」  杏奈は否定しなかった。 「そんな気はあらしません」  桜子はかぶりを振った。人それぞれの生き方を批判などできるものではないと思っている。 「あたしは、強い男性に憧《あこが》れてきたのよ。首領になれるような器の男性に……でも、なかなかいるものじゃないわ」  杏奈が引き上げたあと、景介は下市を呼びにいった。  関係者の一人ずつに相対して質問をぶつけていこうというのが、桜子の作戦だ。 「いったい何のつもりなんだよ。もうあんたは庭師をお払い箱になったんじゃないのか」  下市はぶっきらぼうな言い方をした。道頼が死んだ直後に、新葵流との提携の件で問いつめたことがあった。それ以降、彼とは話をしていない。 「そのとおりです。けど、確かめたいことがあるんです」 「もうたくさんだ」 「訊きたいのは、新葵流のことやのうて、あなたの最初の奥さんのことなんです」  下市はむっとした顔になった。 「そいつも、ごめんこうむるね」 「お願いします」 「いやだね」  下市は踵《きびす》を返そうとした。 「待ちなさい」  背後からした男性の声に、桜子はびっくりした。振り返ると、そこに雅空が立っていた。 「いつものように散策をしていたら、話し声が聞こえたもので」  雅空はかすかに口元に笑いを浮かべた。 「あの」  桜子は頭を抱えたい思いだった。こうして雅空が登場してしまったなら、一人ずつに質問をぶつけていくという桜子のプランが崩れてしまう。  しかし、雅空はそんな桜子の戸惑いにはまったく気づかない様子で、下市の横に足を運んだ。 「この人が『お願いします』って頼んではるんだ。きちんと答えてあげるのが道理やないのかね」 「あんたは、そうやって高圧的にものを言う。ただ、かつて大宗主の養子となっていたということだけで、常に私よりも上の立場に立つんだ」 「上とか下とかは、思うてません」 「たとえ思っていなくても、それが現実だ。桂家の血筋や縁者ではない私は、いくらまじめに勤め上げてもせいぜい師範総長にしかなれない。同じ竹でも、モウソウチクはあくまでもモウソウチクだ。どれだけ頑張ってみても、マダケにはなれない」 「そんなに不満ですか」 「不満だね。桂山流がこれから伸びていくというのなら、多少のことは我慢するさ。師範総長という立場も上がっていくことになるからね。だが、カリスマ性のあった大宗主が亡くなって以後は、桂山流は落ち目の一途だ。あんたも植木屋なら、竹の特性を知っているだろ。竹は数十年から百数十年に一度だけ花が咲くが、その花が咲いたあとは一連の地下茎に連なる竹はみんな枯れ死するんだ」  下市はやりきれないと言わんばかりに、首を左右に振った。大宗主の英太郎という花が咲いたあとの桂家はいっせいに枯れると、彼は言いたいようだ。 「あなたの最初の奥さんは、精神病院に入ってはったと聞きました」  桜子はしたかった質問を浴びせることにした。雅空の前だが、この機をのがす気にはなれなかった。 「誰からそれを?」  下市は眉《まゆ》をぴくりと動かした。 「警察関係者からです」  正確には竜彦からだった。 「そのときのことが、あなたに大宗主に対する恨みを抱かせたのではないかという見方もあるようですが」 「そんなことはない。恨みがなかったと言えば嘘になるが、だから何かの犯行に及んだということはない。それに、あまりにも昔のことだ」 「大宗主があなたの奥さんを責めたというのは、本当なんですね」 「あのときの大宗主は、鶴雄という跡継ぎ息子をやたら可愛がっていた。歳が離れていることもあって、まるで孫に接するかのようだった。それだけに、鶴雄が死んだときには深く悲しみ、あちこちに当たり散らした。私の妻は、そのとばっちりを受けた格好になった。『鶴雄の異変にどうしてもっと早く気がつかなかったんだ』と何度もなじられ、責められた」 「それが原因で精神病院に入ることになり、あなたとも離婚することになったのですね」 「そうだが、そいつは昔のことだ」 「けど、そんな桂家にどうして今まで勤め続けることになったんですか。少なくともその当時は、大宗主に恨みがあったわけやないのですか」 「冷静になった大宗主は私に詫《わ》びを入れ、むしろ重用してくれた」 「あなたが師範総長になれたのも、そのことが影響しているということですか」 「影響しているかもしれない」 「大宗主は、あなたから見て、どんなかたやったのですか」 「一人の人間としては自儘《じまま》で感情が露骨に出るところもあったが、家元としては最高の資質と求心力を持ち、桂山流をあそこまで高めた。華道に限らず芸事というのは、しょせんは家元に負うところが大きい」 「大宗主の跡を継いだ道頼さんは、えらく無能だというふうに聞こえますけれども」 「大宗主の不慮の死でいきなり宗主となったということで経験不足もあったと思うが、今の華道界が追い込まれている状況がわかっていなかった。それなのに、やたら花器の箱書ばかりして……現状のままでは、桂山流はつぶれてしまう可能性すらあった」 「あなたはそんな桂山流を見限るように、新葵流との提携を仲立ちしようとしたのですね」 「東京が発祥の地である新葵流にとって、華道のメッカとも言うべき京都は聖地だ。新葵流は慎重に進出をしようとしていた。そして何よりも情報を欲しがっていた」 「師範総長であるあなたが情報を流すことは、桂山流に対する背信行為になりませんか」 「師範総長といっても、しょせんは宗主の家来だ。将来が不安なまま勤める気にはならない」  提携話がうまく進めば、新葵流による桂山流の呑《の》み込みが行なわれることが予想できた。そうなったなら、下市は功労者として、今の地位を超えるものを得ることになる。 「あんたたちは、新葵流との提携仲介を考えていたおれが宗主を殺したとでも思っているかもしれないが、それは違うね。宗主がいなかったら、提携なんかできっこない。提携は、家元同士の合意に基づく契約の形を取る。そうでないと、全国の師範や弟子が付いてきてくれるものではない。六歳の幼い宗主にそんな合意ができるものではない。無理やり提携を実現したなら、新葵流は批判を受けかねない。だから、経験の乏しい道頼宗主のときこそが、チャンスだった。だから、道頼宗主が亡くなって、おれのアイデアは頓挫《とんざ》してしまったことになる」  確かに、彼は杏奈に計画の挫折を告げていた。  下市は、雅空のほうをちらりと見た。もう自分は充分に話をしたと言いたげだ。 「このへんでええんやないですか」  雅空は桜子のほうに顔を向けた。 「わかりました。どうも」  桜子は下市に頭を下げた。  下市は黙って去っていく。 「さて、次は私の番ですか?」  雅空は自分を指さした。 「できれば、あなたよりも先にみね子さんと少し話がしたいと思っていました」  桜子は正直に言った。 「会うのが一番難しい人やと思います。私が呼びに行ってもいいですが、来てくれるかどうかはわかりませんよ」 「いえ、それには及びません。順番を変えて先に雅空さんと」  雅空に立ち会われては、みね子に訊《き》きにくいことがある。 「それでええのですか」 「はい」  もともとこちらが考えている順番どおりに話ができるという保証はなかったのだ。 「あの」  それでも切り出しかたは迷ってしまう。「すみませんが、富士乃さんと一緒にお話を訊くわけにいきませんやろか」 「ほう、どうしてですか」 「一緒にお尋ねしたいことがあるからです」  本当は、みね子、千代、富士乃、雅空という順に質問をぶつけたかった。けれども、それが叶《かな》わないなら、富士乃と雅空の両方に訊いてみたいことがある。 「わかりました。私が富士乃さんを呼んできましょう」  雅空は少し考えた様子だったが、足を動かした。   27 封印された過去  雅空の姿が見えなくなってから、景介が口を開いた。 「僕は、桜子さんの推理をまだ全部聞いていないだけに、何だか不安です」 「どないなふうに不安なの?」 「今回の事件は、崖《がけ》からの転落、竹林での縊死《いし》、鋭利な刃物による刺殺と放火と、三つとも女性の力では困難だと言えるものばかりです。男性の関係者は、逮捕されたタケルを除くと、下市と雅空だけです。下市はちょっと動機の点でしっくりきません。桂家の一族じゃないし、さっき彼が言っていたように道頼が死んだことで新葵流との提携話もつぶれてしまったんですから」 「それやったら、雅空さんだって動機は考えにくいやないの。桂家とは血は繋《つな》がってへんのよ」 「それはそうなんですけど、たとえ一時的にしろ大宗主の養子でしたから」 「養子やからって、いったい何のために一連の犯行をしたの?」 「そいつがわかれば苦労はしません。桜子さんはどう考えているんですか」 「景介君はうちの推理が固まっているって思ってるみたいやけど、せやないんよ。こうしてぶつかっていくことで、検証をしていく……そういう方針なんよ」 「だけど、犯人がそう簡単にペラペラと喋《しやべ》ってくれますかね」 「そのとおりよ。喋らへんわよね。だからこそ、そこがポイントになってくるんやないかな」 「どういう意味ですか」 「雅空さんは、タケルさんを除けば、自分に容疑が向くということに気づいていると思うんよ。せやから、あれだけ協力的なんやという気がする」 「つまり、雅空さんが犯人なら、僕たちに協力しないってことですか」 「そうよ。うちらの前に姿を見せることさえ、せえへんのとちゃう」 「そうかな。桜子さんは、雅空さんを贔屓《ひいき》目で見ているんじゃないかな」 「せやないわ。さっきの下市さんかて、ただ雅空さんに引き留められたというだけでは、あそこまで話をせえへんかったと思うんよ。疑われたくはないという気持ちが働いていたんとちゃうかな」 「じゃ、雅空さんも下市さんも、二人とも犯人じゃないってこと?」 「まだ断定は無理やけど」  桜子は目を凝らした。  雅空が、富士乃を連れてこちらに向かってくる。  富士乃は細身の体を着物に包んでいる。 「すみません。お呼び立てをしまして」  桜子は富士乃に頭を下げた。 「あの検事さんから頼まれはって、動いてはるのですか」 「いえ、そやないんですけれど」  タケルの逮捕には、桜子自身の目撃証言が関与している。もしもタケルが誤認逮捕だとしたら、桜子は責任を感じずにはいられない。 「とんでもないことを言い出すかもしれませんけど、どうか失礼を許してください」  桜子は先に謝った。 「何やしらん、恐おすなあ」  富士乃は軽く笑った。 「訊きにくいことは後回しにはしたくない性格やさかい、初めに口に出させてもらいます……道頼さんは、ほんまに大宗主さんの子供なんですか」 「いきなり何を言い出さはるの?」  富士乃の顔から笑いが掻《か》き消えた。 「せやから、失礼なことは百も承知しています。けど、鶴雄さんが亡くなった翌年に、道頼さんが生まれてはります」 「そんなことが不自然どすか。世間にはそういうことってなんぼでもあるんとちゃいますのか」 「確かにあります。けど、英太郎さんは長い間、正妻のみね子さんとの間に子供が恵まれず、望んでいた跡取りがなかなかできませんでした。もちろんその原因はわかりません。せやけど、第二の愛人とも言うべき久保井杏奈さんとの間にも、結局子供はできませんでした」 「何が言いたいんどすか」 「ようやくできた跡取りである鶴雄さんを英太郎さんは溺愛《できあい》しはったことでしょう。鶴雄さんは、あなたと英太郎さんの子供やと思います。まだそのころは、あなたは英太郎さんを愛してはったのでしょうから。せやけど、鶴雄さんができたことで、あなたはかえって英太郎さんへの思いが醒《さ》めてしまったのやないですか。自分は、跡取りの赤ちゃんを生むための道具に使われたのではないかと」 「どういう理由で、そんなふうに考えはるのですか」  訊いたのは、富士乃ではなく、雅空だった。 「それは、うちが女やから、としか説明でけしません。うちがもしも富士乃さんの立場やったら、と仮定してみたのです。鶴雄さんができたとたんに、英太郎さんの関心と愛情の対象は急に変わったのです。まるで、せっかく生んだ子供を取り上げられるように……英太郎さんと夫婦ならともかく、戸籍上は他人です。そのうえ、みね子さんという存在もありました」 「桜子さんなら、どうしはりますか」 「うちやったら、心の支えが欲しくなります。自分のつらい立場を理解してくれる男性が……」 「なるほど」  雅空は小さく頷《うなず》いた。 「その男性が、雅空さん、あなたやったのですね。あなたがずっと独身でここにいやはるのは、単にこの庭園が好きなだけやないですね。ひそかに富士乃さんを愛し、そして二人の間に道頼さんという子供まで生まれた。そうなったら、もうここを出ていく気にはなりませんね」  そう考えれば、辻褄《つじつま》が合ってくるのだ。「このことに気づくきっかけになったのは、うちが突然に解雇同然になったことやったのです。うちは庭園改修の継続について、富士乃さんからいったんは了解を得ていたのです。けど、そのあと富士乃さんから『舌の根も乾かないうちに』とその撤回を申し渡されました。その間に何があったのか、あれこれ考えてみたのです」  桜子は、鶴雄が死んだときの様子を雅空に尋ねていた。雅空は�つらい日に、つらいことを訊《き》かはりますね�と言いながら、そのときの様子を答えた。  桜子がそうして雅空と相対しているときに、富士乃は彼を捜していて姿を見せた。そのときに富士乃は改修継続を許諾した。  しかし、すぐあとで、富士乃はそれを撒回した。桜子が鶴雄のことをあれこれ尋ねたことを、富士乃が雅空から聞いた結果、そうなったと考えると納得がいく。 「これ以上|詮索《せんさく》されとうない……あなたがたは、そう思わはったんとちゃいますか。うちは、お二人の関係に、もっと早くに気づくべきやったかもしれません。雅空さんが欲しがった織部灯籠《おりべとうろう》は、竿《さお》の部分にマリア像のようなものが刻まれていて、キリシタン灯籠という別名があります。そして、富士乃さん。あなたはキリシタンやないですか。鶴雄さんの遺髪が埋められたお墓に向かって十字架を切ってはるところを、うちは見かけたことがあります」  それは、初めて富士乃と言葉を交わしたときのことだった。 「あたしは、もともとからのキリシタンやないの。鶴雄が死んだときからよ。あの夜、帰ってきたら、鶴雄は原因不明の高熱を出して苦しげに小さな体を痙攣《けいれん》させていたのよ」  富士乃は声をかすれさせた。 「失礼ついでにお尋ねします。その夜は、どこに出かけてはったんですか」 「どうしてそんなことを訊くの?」  富士乃の声がさらにかすれた。 「ひょっとしたら、その夜は雅空さんと一緒に外出されていたのやないですか」  年に一度の桂山流の総会がある夜だった。大宗主の英太郎とその正妻であるみね子はそれに出席していた。富士乃と雅空にとっては、数少ない逢瀬《おうせ》のチャンスであったはずだ。 「どうして、そこまで」  富士乃は足元をふらつかせた。雅空が富士乃を支える。 「あたしは、あなたにあれ以上感づかれたくなくて、庭園改修を打ち切ることにしたのよ。それやのに、そのことがきっかけになって見抜かれるなんて、皮肉としか言いようがあらへんわ」 「かんにんです。富士乃さんを責める気はあらへんのですけど」  結果的にはそうなっているかもしれない。 「もうええでしょうか」  雅空が訊く。 「あと一つだけ……鶴雄さんの死に、悟二朗さんたちは関わっていたのですか」 「あの連中にとって、鶴雄は自分たちに転がり込むはずだった宗主の地位を天空から奪い取った幼い悪魔やったのよ。鶴雄が命を狙われていたことは、何度も感じたわ。鶴雄はきっとあの連中にやられたのよ」  富士乃は口惜しそうに言った。 「なんか、とんでもないことになってきましたね」  景介は首筋の汗を拭《ぬぐ》った。  雅空に抱きかかえられながら、富士乃は屋敷のほうに戻っていった。 「せやね」  桜子も、推測がここまで的中するとは思っていなかっただけに、正直なところ当惑している。 「これからどうするんですか」 「予定どおり、みね子さんと千代さんに会ってみる」 「わかりました。呼んできます」 「うちも一緒に行くわ」 「みね子さんは会ってくれますかね」  確かに、かなり気むずかしい相手だろう。あまり会話が成立した記憶がない。 「とにかくトライしてみることやわ」  桜子は池のところで足を止めた。洲浜のほうからゆっくりと歩いてくる老婆の姿をみとめたからだ。老婆は長い杖《つえ》を手にしている。 「景介君。あれは、みね子さんやないの」 「そうですよね。でも、恐ろしいほどタイミングがいいっすね」  景介も目をしばたたかせている。 「あんたら、あてに何の用じゃ」  みね子はゆっくりと桜子たちに近づいた。  額には、いつも以上の皺《しわ》を寄せている。 「雅空さんが『どうしても』と頼むから、こうして来てやったんじゃぞ」 「あ、それはどうも」  桜子は思わず頭に手をやった。  タイミングがいいのではなかった。 「あてに、いったい何の用じゃ」 「差し出がましいようですが、調べたいことがあるんです」 「なんで、あんたがそんなことを」 「うちは、もしかしたら無実の人を逮捕させることに一役買ったかもしれないんです」 「無実の人……誰のことじゃ?」 「タケルさんのことです」 「あいつらは、いなくなったほうがええ」  みね子は吐き捨てるように言った。 「そんなにお嫌いなのですか」 「あいつらは、桂家のためにならん連中じゃ」 「政之さんでは、宗主としては力不足だったのですね」 「あたりまえじゃ。無能のくせに、威張りちらしおる。その父親の悟二朗はもっとひどい。やたら私欲が強く、先のことなどろくに考えられん男じゃ。あんな連中が宗主になったなら、桂山流は立ち行かなくなってしまう」 「せやから、あなたは富士乃さんという存在を認めたのですね」 「何よりも、家が優先する。それが掟《おきて》じゃと思うとる。あても、旧華族の出身じゃ。白|足袋《たび》を守ることの大切さはわかっとるつもりじゃ」  みね子は、ほんの少し横を向いた。 「けど、貴重な跡取りであった鶴雄さんは幼くして亡くなりました」 「あれは、悟二朗の仕業じゃ」 「どうして、そうやとわかるのですか」 「あいつらは、誰もおらんときを狙って、鶴雄に煎《せん》じた毒草を飲ませた」 「証拠は、あるのですか」 「下市の女房が、悟二朗に金をもらって政之とともにバイクで外出しておった。うちの人に追及されて、下市の女房はそのことを白状した。その当時は高校生だった政之から『将軍塚《しようぐんづか》に仲間とともに集まるのに、女を連れていけないと格好悪い思いをするから』と説得されたと言ってな。下市の女房は、まだ二十代で若かった」  将軍塚は、東山ドライブウエーの頂上にあり、かつての暴走族のメッカのような場所だった。まだ若かった下市の最初の妻は、金をもらったというだけでなく、好奇心も作用していたのかもしれない。年下の高校生である政之に好意を持っていたとは考えにくいが、なかば家政婦のように扱われていた存在だっただけに、バイクに同乗してストレスを発散させたいという気持ちがあったとしてもおかしくはない。 「そうして人払いをしておいて、悟二朗は鶴雄を殺した。あいつにとって、あれほど邪魔な存在はなかったからじゃ」 「でも、それは推測ではないのですか」 「いいや、間違いない。うちの人もそれを確信しておった」  みね子は白髪の頭を振った。 「けど、証拠はないのですね」 「証拠を残さんように連中はやりおった。じゃから、大宗主のたたりが起きた!」  みね子は唇をねじ曲げるようにして言葉を絞り出した。桜子はその迫力に圧倒されそうになった。 「連中は、罰を受けて当然なんじゃ」  みね子は杖を持ち直して、戻ろうとした。 「あの、もう少しだけすみません。道頼さんのことなんですが……」  桜子は口に出していいのかどうか迷いながら、切り出した。 「道頼がうちの人の子供でないことは、わかっておった。じゃが、それを追及することは一度もせなんだ。うちの人も、あても」  桜子が訊き終わらないうちに、みね子はあっさりと答えた。そのあまりのあっけなさに、桜子は当惑した。道頼と英太郎の血の繋《つな》がりが切れていたということは、世襲という桂家宗主の根本的資格を覆すことになる。それを、このみね子は知っていた。そして、英太郎も。 「鶴雄と道頼は、あまり似ておらなんだ。それに、道頼が生まれてからじゃよ。雅空が『ここにずっと居たいのです』と申し出たのは」 「あなたも大宗主も、わかっていながらどうして何も言わなかったのですか」 「あんたらには理解できんじゃろ」  みね子は口元を緩めた。戻りかけているために、みね子の顔は横を向いている。かすかに笑いをたたえた口が、まるで裂けたようにも見える。 「ええ。理解しがたいことです」  愛人が、別の男との間に生んだ子供だということがわかっていて、なぜ怒らないのだ。 「道頼が、跡継ぎじゃからだよ。もしも真相を突き詰めて明らかにしてしまったのでは、政之という悟二朗の息子のところに宗主の地位が転がり込んでしまう」 「けど、政之さんは血を引いています。そもそも、雅空さんのあとから政之さんを養子になさったのは、血筋を大事にしたから、ということじゃなかったのですか」 「それが間違いじゃった。悟二朗も政之もそれで舞い上がってしもうた。悟二朗は次男じゃから宗主には縁がないとあきらめておっただけに、よけいに欲が出てしもうた。政之も悟二朗も、何の品格も智慧《ちえ》もない男じゃ。あんな下種《げす》な連中に桂山流の将来を預けるくらいなら、雅空のほうがよっぽどましじゃ。雅空は、さすがに貴族の血を引く男じゃ。立ち居振舞いにも、言葉遣いにも、知性と気品がある。彼の子供じゃったなら、とあてはうちの人に進言した」  みね子自身、自分は旧華族の出身だと言った。やはり、同じ白足袋の一員として、相通じる独特のものを感じたのだろうか。 「道頼さんのことを、悟二朗さんたちは気づいてはったのですか」 「いいや。うちの人もあても感づかれんように、最大限の努力をした」 「けど、大宗主さんは、自分の子供がまた生まれたならと、杏奈さんを第二の愛人にしたのですね」 「本物の息子がでけたなら、という思いはやはりあった。じゃが、やはりそれは叶《かな》わなかった」 「あなたは第二の愛人の存在も許したのですね」 「すべては、この桂家のためじゃ」  みね子は顔を池のほうに向けた。その表情は見えなかった。けれども、どこかに相克する気持ちを浮かべているように、桜子には思えた。  彼女が英太郎の息子を身籠《みご》もってさえいれば、こんな複雑な家の事情はひとかけらもなかったのだ。跡取りとなるべき嫡男がいなかったがために、雅空を養子にし、悟二朗の説得により甥《おい》の政之を新たな養子とし、さらに二人の愛人を認めることになった。 「もうええじゃろ」  みね子は、肩を落としながら、ゆっくりと杖をついて歩いていった。   28 立ち会いの適任者  桜子と景介に促されて、千代は困惑した顔で屋敷から出てきた。ちょうど台所に一人で居るところを捕まえることができたのだ。 「いったい何なんですか」  考えてみれば、千代とは代理口伝の証人になったことで礼を言われたときを除いて、これまで話をしたことがなかった。 「すみません。どうしても確認しておきたいことがあるんです」  桜子は千代に頭を下げた。 「あなたと話をしていると、あたしは叱られるかもしれません」  千代は周囲を見回す。 「叱られるって、誰にですか?」 「それは……」 「富士乃さんですか」 「ええ、まあ」  富士乃は、みね子のときのようには桜子の存在を伝えていないのだ。やはり、大宗主の正妻であったみね子と、自分から見て息子の嫁である千代とでは、扱いが違うようだ。 「じゃあ、手短かにします。ぶしつけな話になることはご容赦ください。道頼さんは、嵯峨にいらっしゃる農家の木村靖男という人のところへ行かはったことがあるということですが、それはいつごろのことやったのですか」  道頼と木村は、一度会っていた。木村が山菜を納入している清滝の料理屋の紹介を得て、道頼のほうから訪ねているのだ。タケルはそのことから、木村の偽証言の可能性を主張していた。道頼が政之を突き落とし、木村に�転落するところを見た�という証言をさせたというわけだ。 「あの人が亡くなる一カ月前くらいやったと思います」  千代は少し考えてから答えた。 「代理口伝のことが話に出たのは、それよりあとのことでしたか」 「ええ。それは、政之さんのことがあってからでした」 「なんで、道頼さんは木村さんのところを訪ねはったのですか」 「詳しいことは聞いていません。野草の毒のことを尋ねたいということでしたが」 「そうですか」  桜子は目を凝らした。  千代の背後から、こちらを窺《うかが》っている男の影が見えたからだ。 「下市さんですね」  桜子は、男に向かって声をかけた。  下市は黙って姿を消そうとした。 「待ってください」  桜子は駆け足で前に進み出た。「あなたには、少しつきあっていただきたいところがあります」 「は?」 「今から一時間ほど時間をいただけますか」 「何をするんですか」  下市は怪訝《けげん》そうに訊《き》いた。 「これから、実験に立ち会ってほしいのです」 「実験? どうして私が」 「あなたが適任だからです」  桜子はそう答えた。 「景介君。悪いけど、荷台に乗ってくれる?」  軽トラックの運転シートには二人しか座れない。 「それはいいですけれど」  推理のすべてを聞いていない景介としては、下市が助手席に座ることが不安でしかたがない。もしも桜子が運転中に攻撃を受けたなら、防ぎ切れないかもしれないのだ。 「大丈夫ですか」 「たぶんね」 「どこまで行くんですか」 「嵐山よ」 「下市を荷台に乗せたほうがいいんじゃないですか」 「ダメよ。例の人形が荷台に積んであるんだから」   29 死の転落  木村靖男は、毎朝決まって山菜採りに向かう慣れた道を歩いていた。  いつもと違うことは、時間帯が昼過ぎであることと、後ろに桜子と下市が付いていることだ。 「どのへんでしたか? あなたが、あの転落を見はったのは」  桜子は足元に気をつけながら、声をかけた。歩くだけの道幅は充分あるが、もし足を滑らせてしまったら大変なことになる。 「もうちょっと先です」 「すみませんが、その地点に着いたら立ち止まってくれはりますか」  桜子は、自分の後ろを歩く下市のほうを何度も振り向く。もしも下市が妙な行動をしたなら、すぐに対応できるように注意は払っている。景介は「くれぐれも下市には気をつけてください」と耳打ちをして、対岸側の山道に向かっていった。  木村は足を止めた。 「そのへんですか」 「ええ。たぶん、ここらあたりです」 「わかりました」  桜子は、対岸に向かって大きく手を振った。 「いったい何のつもりですか?」  下市が訝《いぶか》しそうな目を向ける。  次の瞬間、変化があった。 「落ちまーす」  突然、男の声が対岸から聞こえた。そして、人影が渓谷の斜面を転落していく。 「おおっ」  木村は小さな目をいっぱいに見開いた。  下市も驚いた顔をしている。 「どうですか。あのときと同じですか」 「同じも何も……そっくりそのままです。しかし、なんでまた二度も」  木村は悪い夢を見ているかのように頬を両手でこすった。 「こうはしてられない。助けを呼ばないと」  顔色を変えた木村を、桜子は押しとどめた。 「驚かせてしもて、かんにんです。あれは、人間やないんです。人形です」 「え」 「うちの家の庭にあるモウソウチクを切って竹ヒゴを何本も用意して、張りボテ人形の要領で作ってみたのです……景介君、もういいわよ」  桜子は対岸の山道に向かって、手を振った。  灌木《かんぼく》の間に身を隠していた景介が、勢いよく姿を見せる。 「今回は、彼が�落ちまーす�と声を出しましたけれど、竹ヒゴ人形にテープレコーダーを仕込んでおけば、もっと迫真性が出て、落ちた人間が叫んだのに近いものになると思います。テープには、�大宗主のたたりだ�と吹き込んでおくわけです」  景介は手にしていた釣り糸を引き始めた。川岸に落ちた竹ヒゴ人形が、スルスルと上がってくる。 「あなたがあわてて一一九番に電話するために家に引き返したのを確認してから、あんなふうに人形を回収することは可能です。この場所からは、人間が落ちたはずの川岸が見えません。そこがミソだったのです。あなたは、納入する料理屋さんが休みの水曜日を除いて、毎朝この山道を通りますでしょう。そして、早朝の時間帯に、あなた以外の通行者はまずいませんよね。対岸の山道のほうを含めて」 「じゃあ、発見された政之さんの死体は?」  下市が血走った目で桜子に訊く。 「政之さんはそれよりも少し前に、向こう側の山道に呼び出されて、突き落とされたのです。川岸の岩に�たたり�と血文字を残しておいたのも、犯人の仕業です」  桜子はビニール袋を取り出した。その中には、前にここで採取した竹ヒゴが入っている。 「調べてみたら、これはマダケでした。洛西桂園に隣接する竹林のものやと思います」  桜子は下市の前で、ビニール袋をひらひらさせた。 「あんた、まさか、その犯人が私だと言う気じゃないでしょうな」  下市は桜子を睨《にら》みつける。 「犯人は、朝早くに政之さんをあそこに呼び出すことができた人物です。失礼ですが、あなたは桂家の人たちより一段下の立場ですから、よほどの理由を用意しないとそれはむつかしいと思います」  桜子は木村のほうを向く。 「別の件でお尋ねしたいのですが、道頼さんはあなたのところへ毒草のことを訊きに来ましたね」 「ええ」  木村はまだ興奮が醒《さ》めていない様子だ。 「どのようなことを訊きに来たのですか」 「まず、痙攣《けいれん》が出て高熱状態になって死ぬ毒草があるのかって、訊かはりました」 「そういうのがあるんですか」 「ええ。ここに限らず、山にはいろいろ危ない草があります。たとえばドクゼリはかなりの猛毒で、うっかり食べたことによる死亡事故があとを絶ちませんし、ヒガンバナやレンゲツツジも下手をしたら死ぬことがあります。食べられるものとの見分けがつきにくいのが、難なのですよ。ドクゼリと食用のセリの判別は、若葉の頃は素人には無理です。ヒガンバナは、食べられるノビルやアサツキと間違えてしまいます。レンゲツツジなんて蜜《みつ》にも毒があるから、とてもやっかいです。昔は、親が子供に『ツツジの蜜は吸ってはいけない』と教えたもんだが、今じゃ親のほうだって知りませんや」  桜子は、下市と景介を伴って、洛西桂園に戻った。 「もう一つの事件のことを、これから検証してみます」  軽トラックを停めたあと、桜子は竹ヒゴ人形を肩に乗せて、竹林に入っていく。 「これにしましょう」  桜子は、何本かをチェックしたあと、決めた若竹の下に竹ヒゴ人形を置いた。 「いったい何をする気だ?」  下市は相変わらず、落ち着かない顔をしている。 「やはり、実験です」  桜子は選んだ竹を持つと、ぐいと曲げた。 「景介君に実験台になってもらうのは危険やから、この竹ヒゴ人形に悟二朗さん役をしてもらいます」 「悟二朗さん役を?」 「景介君、この人形を持って」  黙って景介は人形を両手で支える。  桜子は体重をかけて、竹をさらにしならせる。三メートル近い長さがあるが、弾力性のあるマダケは地面すれすれまで曲がる。その状態にしておいて、紐《ひも》で隣の竹の根元に結わえる。竹はまるで倒れたようになるが、この密生した竹林ではほとんど目立たない。  桜子は別の長めの紐を取り出して、しなり切った竹の真ん中あたりに結びつける。 「さてと」  桜子はポケットからカッターナイフを取り出した。そして、その刃を出す。 「危ないじゃないか」  下市はあとずさりをする。 「これがないと、実験はでけしません」  桜子は自分の靴の底にガムテープでカッターナイフをくっつけたあと、今度は短めの紐でカッターナイフごと靴を巻いた。これで足を動かせばカッターナイフも動くようになった。 「これだけの準備をしておいて、犯人は悟二朗さんをここに呼び出したわけです」  桜子は長めの紐を、その先端を輪の状態にして、後ろ手に隠し持った。その紐は、しなって曲がった竹の真ん中あたりに結ばれている。  景介が持つ竹ヒゴ人形に近づいた桜子は、その後ろからいきなり襲いかかった。そして、手にした紐の輪を竹ヒゴ人形の首にかける。そして、間髪を入れずに足を動かして、靴に巻き付けたカッターナイフで隣の竹の根元に結わえた紐を切断する。しなり切っていた竹が、ビュンという音とともに元に戻ろうとする。  その勢いで、竹ヒゴ人形は浮き上がるように宙に舞った。  首の部分を、紐に締められたまま…… 「あれが、人間やったとしたら」  桜子は、若竹の真ん中あたりまで引き上げられて、ぶらぶらと揺れる竹ヒゴ人形を見つめた。  練習なしのぶっつけ本番だったが、思っていたよりうまくいった。 「悟二朗さんは、やはり自殺じゃなかったのか」  下市は、頬をつたう汗を拭《ぬぐ》いもせず、竹ヒゴ人形をじっと見た。 「自殺やないという心当たりでもあったのですか」 「いや、心当たりというほどのものは……ただ、あの図太くて強欲な悟二朗さんが自殺をするようなタマとは思えなかった。しかし、いったい誰がこんなことを」 「それは、まだお話ししたくないのです」 「そんなもったいぶらなくても」  下市は、ようやく竹ヒゴ人形から視線をはずして、桜子のほうを向いた。 「もったいぶっているわけやあらしません。先に、確認しておきたいことがあるのです」 「何についての確認ですか」 「あなたに対してではなく、富士乃さんに対してです」   30 夢のあとさき  下市は、ようやく屋敷のほうに戻っていった。いくら訊《き》かれても、桜子は犯人の名前を答えなかった。 「桜子さん。まさか僕にも話せないってこと、ないっすよね」  景介は恐る恐るという感じで言った。 「よう考えたら、わかるわよ。嵐山の奥にある山道まで政之さんを呼び出せた人で、竹林に悟二朗さんに来るようにと言えた人よ」 「はあ」  景介は首をひねる。 「もっとヒントを言うと、竹の弾力性を熟知している人で、木村さんがあの山道を毎朝通るということを知っていた人よ」 「まさか」 「うちかて、最初はまさかと思ったわよ」 「でも、道頼宗主がどうしてそんなことを……それに、彼も殺されたじゃないですか」 「その犯人として捕まったのが、タケルさんやったわ。けど、もしもタケルさんが無実やとしたら、いったい犯人はどこにいるのよ。あのときのことを、よう思い出してよ。うちらは洛西桂園の門から出てくるタケルさんを見かけたわ」 「そして、桜子さんは『タケルにやられた』という道頼宗主からの電話を受けましたよね」 「その前提を踏まえたうえで、タケルさんが犯人でないとしたなら」 「タケルの『書院に入ったときには、すでに宗主は倒れていて、火も燃え始めていた』って言い分も、正しいものだとするんですね」 「そうよ」 「誰かが先回りしたということになりますけれど、それじゃ桜子さんのところに電話が入りようがないっすよね」 「なんで?」 「だって、すでに道頼宗主が倒れていたなら、電話なんかできません」 「道頼さんが倒れていたというのが、演技やとしたらどないなるのかしら」 「え……」 「書院に入ってきたタケルさんが、自分に容疑が向くことを恐れて立ち去るだろうことを予測したうえでの演技やったとしたら」 「じゃあ、タケルさんが逃げたあと、道頼宗主自身が……」 「証人役になったうちらを呼んだのも、道頼さん自身やったやないの」 「何だか、頭がこんがらかりそうですよ」  景介は眉間《みけん》に皺を寄せた。 「警察は、政之さんを転落事故、悟二朗さんを自殺と、どちらも殺人ではないと処置した。けど、どっちも他殺やったのよ。そして、殺人事件と考えた道頼さんが自殺やった」 「全部、逆ってことですか」 「せやから、今回の一連の事件は、なかなか真相が見えへんかったのよ」 「三人目の死者が一人目と二人目を殺していたなんて、思いつきもしませんよ。でも、どうして道頼宗主は自殺なんかを」 「その事情を、訊けそうな人が来たわ。道頼さんの母親よ」  向こうから、着物姿の富士乃がゆっくりと歩いてくる。下市に、「うちが、どうしても会いたいと言っているとお伝えください」と頼んでおいたのだ。おそらく下市は、彼女に目撃した竹ヒゴ人形のことを話しているだろう。いや、むしろ、話してほしいと思って、下市を実験の証人にしたうえでメッセンジャー役に選んだのだ。  富士乃は、足取りが重そうだ。 「何度も呼び出して、かんにんです」  桜子は謝った。 「下市から聞いたわ」 「あなたも、わかってはったのですか」 「何を?」 「道頼さんの、政之さんや悟二朗さんに対する行動です」 「ひょっとしたら……とは思ったわ。あの子が、自らの命を絶つ道を選んだと知ったあとからやけど」 「自殺のことは?」 「それも、すぐには思いつきはしませんでした」 「けど、息子さんの病気のことは聞いてはったんでしょ」 「ええ」  富士乃は、小さく頷《うなず》いた。 「不治の状態やったのですね」 「もう手の施しようがありませんでした。若年性のものは進行が速いそうですよって」 「もちろん、道頼さん本人は、自分の病気のことを御存知やったのですね」 「お医者さんからは母親であるあたしにまず告げられました。息子から『本当のことを教えてほしい。全国に四十万人の弟子を抱える宗主なんだから、きちんと知っておかないといけない』と言われて、正直に話しました」  富士乃は、目を潤ませた。  彼女の二人の息子——鶴雄と道頼は、幼くして、そして若くして命をなくした。 「せやけど、桜子さんはどうして道頼の病気や自殺に気づいたのですか」 「四つの理由からです。一つは、道頼さんが花器の箱書を熱心すぎるほどに繰り返してはったことです。箱書を乱発することが、桂山流にとってようないことはわかってはったと思います。けど、翼さんや千代さんたちに少しでも資産を残そうとしたら、他に手っとり早い方法がなかったのですね。二つ目は、道頼さんがうちを証人にして代理口伝をしはったことです。代理口伝はきちんと役に立つ結果になったのですけれど、話としてちょっと出来すぎでした。第三は道頼さんの亡くなりかたです。タケルさんを犯人に仕立てるのなら、ナイフで自らを刺すだけでも充分なのに、道頼さんは自分の体に灯油をかけて焼いてはりました。死んだのが自分であることを疑われないために顔は焼かず、体だけを黒焦げに近い状態にしたのは、解剖によって不治の病であったことを悟られないためやったと思います。そして四つ目の理由は、これが一番の決め手ですけど、いくら桂家のためやと言うても幼い翼さんを残して、道頼さんが命を絶つわけがあらしません」 「息子は、とんでもない人を代理口伝の証人にしてしまったようやね」  富士乃は、なかば諦観《ていかん》したかのように言った。 「うちは、タケルさんを犯人にする証人にもされてしまいました」 「そのことを恨んでいますか」 「いいえ、そのことは。せやけど、人をあやめたり、無辜《むこ》の人間を犯罪人に仕立て上げることは、許せしません」 「桜子さん。あなたには、守るべき家がありますか」 「あります」  だから、演劇を捨てて、父の庭師の仕事を継いだのだ。 「失礼ながら、庶民のかたの家と、桂家とは違います」 「そうかもしれません。けど」 「わかってくれとは言わしません。せやけど、こういう家があるということだけは知っていてほしいのです。家のために、そして伝統を守るために、個が犠牲にならなくてはならないという現実を」 「…………」 「今回の道頼の行動は、まさに家のため、伝統のためなんです」 「うちも京都の人間やからある程度の理解はできます。けど、せやからと言うて、賛成はできしません」 「あなたは、あたしたちにどうさせたいのですか」 「誤認逮捕されているタケルさんのために、証言をしていただきたいと思っています」  すでに道頼は死んでいるから、第一の事件と第二の事件は被疑者死亡という扱いになる。問題は、現在も拘留されているタケルだけだ。 「自らの死期を早めてまで、この桂山流を守ろうとした道頼の意思が無になりますね。そして、桂家は口さがないマスコミの好餌《こうじ》にもなってしまいます」 「そうなるかもしれません。けど、それはしかたのないことやと思います」  真実は動かしがたい。そして、それを曲げることは許されない。たとえ、白|足袋《たび》の人間であったとしても。 「タケルは、鶴雄を殺すことに関わっていたとしても、もうとっくに時効で罪には問われません。それは不条理やないですか。富山出身のあの男が、薬種商の次男坊だということは、あとになって知りました。弓恵と交際中だったタケルは、何かのアドバイスを悟二朗にしたと思います。鶴雄が亡くなった夜に、タケルはこの家に来ていました。アドバイスどころか、関与していたかもしれないのですよ」 「道頼さんは、それで農家の木村靖男さんに毒草の話を訊くなど、いろいろ調べようとしていたのですね」 「大宗主の死についても、疑念がないわけではありませんでした。大宗主が食べた鮎《あゆ》は調べられたようですが、もしも付け合わせとして山菜に見せかけた毒草が出されていてそれを食べたとしたならという可能性はありえました。鮎は骨などが残りますが、山菜は全部食べてしまってはなかなか検査のしようがないのでしょう……息子は自分には残り時間があまりないことを知って、それらのことを調べようとしたのです。もともと争いを好まない性格でしたから、あの連中とも決定的な対立はしないでやっていこうと思っていたようですが、若い自分が先に死ぬということがわかったことで、意を固めたわけです。まずは調べて告発をすることを考えて野草に関して木村靖男さんに訊いたりしていたのですが、そう簡単にわかるものではありません。とにかく、時間がないのです。息子はやむなく次の手段を採ることにしたのだと思います。木村靖男さんに話を聞いたときに、彼の毎朝の山菜採りの時間や行程を知り、計画のヒントにしたのでしょう」  政之の死体の横にあった�たたり�の血文字は、悟二朗たちに精神的重圧を与えるとともに、大宗主の死を糾明し切れなかった道頼の無念さを表わしていたものかもしれない。 「タケルさんに対しては、きっと検事が追及してくれると思います。もし彼らが犯罪をおかしていたとしたら、たとえ時効でもタケルさんは社会的制裁を受けることになると思います。あなたが言わはったように、マスコミは放っておかないでしょうから」 「少し考えさせてください」  富士乃は俯《うつむ》いた。   31 戦乱と怨霊の町  桜子は、景介とともに再び京都駅ビルの屋上に足を運んだ。鉛色の重い曇天が、空を占めている。 「なんか、今一つ後味がよくないっすよ」 「けど、富士乃さんは、うちらの願いを聞き入れて、警察に行ってくれはったやないの」  竜彦が、今ごろ富士乃から事情聴取をしているだろう。 「桂山流は、ボロボロになっちゃうでしょうね」 「せやろか。もし本物やったら、また立ち直る気がうちにはするんやけど」  桜子は、京都の町並みを見つめた。「この京都かて、何度も立ち直ってきたんよ。千年の都と言われるけれど、その間には応仁《おうにん》の乱をはじめ、いろんな戦乱に見舞われている。平安京という名前やけど、実際は平安とはほど遠い歴史やったんよ」  西陣《にしじん》という地名は、応仁の乱の名残りだ。坂本龍馬が定宿にしていた寺田屋をはじめ、新選組と志士たちの血塗られた戦いの痕跡《こんせき》もいまだに残っている。  また早良親王《さわらしんのう》や菅原道真といった非業の死を遂げた人物にゆかりのある場所も少なくない。そういったさまざまな怨霊《おんりよう》を鎮めるために御霊会《ごりようえ》が催され、それが祇園祭《ぎおんまつり》として発展していく。だから、祇園祭には、みんなでバカ騒ぎをして舞い踊るといったカーニバル的な色合いはほとんどない。コンコンチキチンの鐘は、怨霊を鎮めるための音色なのだ。 「それでも、京都は世界遺産を抱える歴史都市として、しっかりと生きているってことですよね」 「しっかりとまでは、言えへんわ……」  桜子は、京都の町並みを指さした。  少なくとも、この駅ビルから見る光景には、古都という雰囲気はない。そして、この駅ビル自体も。 「そやけど、まだ捨てたもんやないと、うちは思う。本気になったら、京都はまだまだ死にはせえへんわ。桂山流も、同じやと思う」  富士乃、雅空、みね子、千代、と幼い宗主である翼を支える人物たちは健在だ。それに対して、悟二朗、政之は死去し、タケルはもはや桂家には復帰はできない可能性が高い。下市は辞表を出し、杏奈も桂家から去っていくことになると聞いた。あとには、翼を核にして結束できる人物だけが残った。 「その意味では、道頼宗主の遺志は生かされたということかもしれないっすね」  道頼は、箱書による収入どころではない大きな遺産を翼に与えたと言えるかもしれない。 「うちは、道頼さんの遺志よりも、大宗主の英太郎さんの遺志を感じてならへんのよ」  そもそも英太郎が正妻のみね子との間に嫡男をもうけていたなら、今回の事件は、いや過去の事件すら、何も起きなかっただろう。  そして英太郎は、道頼が自分の子でないことを知りながら、あえてそれを追及せず、むしろ甥《おい》の政之よりも道頼を重用した。そして、道頼を次期家元に指名した。そもそもの伏線は、その英太郎の判断にあったとも言える。  もしも道頼が家元にならなければ、今回の一連の事件は何もなかったに違いない。 「家元って、そんなにいいものなんすっか」 「うちには、いいとは思えへん。とくに華道はこれから大変やわ」  少子化、アレンジメントフラワーの隆盛、昔ながらの師弟制度の不人気、カルチャーセンターの普及……などなど、華道をめぐる状況は厳しい。 「厳しいさかいに、悟二朗グループと道頼さんは、相|食《は》むことになったのやないかな」 「どういう意味っすか」 「これまでのように、家元だからといって桂家の全員がのうのうとしていられる状態ではなくなってきている。大宗主の英太郎さんは、いち早くそのことを感じていたのやないかな。せやから死ぬ間際に、桂家から悟二朗さんのグループを排除するという遺志を示した……」 「桂家の中のリストラってことですか。やっぱ、大変ですよね」  崖《がけ》っぷちに追い込まれた桂家の姿には、開発の波に巻き込まれ、若い人の観光離れに苦しむ京都という歴史都市自体が、オーバーラップする気が桜子にはする。 「これから、この京都かて、今までのようにはいかへん。せやけど、京都がもし本物やったら、きっと生き残るわ。もちろん、京都に住む人間が守ろうという姿勢を持たんとあかんけど」  それと同じように、桂山流も本物なら生き残る気がする。翼を核にして結束できる四人が踏ん張れば……  桜子もできる限りの応援をするつもりだ。まずは、庭園の�欠け�を直すことを無償でやろうと思っている。 「それにしても、家元ってしんどい存在ですよね」 「せやね」  かつての桜子は、白|足袋《たび》の人たちがうらやましいと思ったことがあった。その家に生まれたというだけで、敬意を受ける地位が約束されているわけだから。  しかし、一歩その中に入れば、さまざまな欲やしがらみが渦巻き、窮地に追いつめられている家もあるのだ。京都人の習性として、それを表に出すことは絶対にしないが……  道頼が「隣の芝生は青く見えるものです」と言っていた意味が、ようやくわかった気がする。 「うちは、一庭師の家に生まれてよかったと思っているんよ。受け継ぐ秘伝みたいなものは何もあらへんけど、そのぶん制約はなくて、桜子流のやりかたを編み出すことかてでけるんやから」  雲間から、一条の薄い陽光が京都の町の端に差し込んできた。  その位置は、くしくも、洛西桂園のある方角だった。 「桂山流の人たちには、頑張ってほしい。そして、あの洛西桂園も残ってほしい」  桜子はそうつぶやいた。  庭園も、生け花も、それを見る人にやすらぎを与え、癒しの気持ちにさせるという共通点がある。 「すぐれた一枝は、万枝にまさる、か」  桜子は、最初に洛西桂園を訪れたときに、道頼から�大宗主の好きな言葉�として、それを聞いた。  万枝を飾るほどの隆盛は望むべくもないが、一枝としてなら桂山流は何とか活路を見つけ出せるかもしれない。  道頼は、同じ日に竹林に桜子を案内して、若竹のしなりを見せてくれた。 「すでに犯行を決意していた道頼さんが、うちに一つだけヒントを与えてくれたとも解釈でける気がするんよ」 「どんなヒントですか」 「もしも自分の犯行であることがわかったなら、それを明らかにしてくれというメッセージを含んだヒントよ」 「考え過ぎじゃないっすかね」 「かもしれへん。けど、竹の持つしなやかな強さを教えてくれたのは、確かよ。桂山流も、竹と同じように根が張っていて、そう簡単には倒れないって」  雲間はしだいに広がりつつあった。  ほどなく京都の町全体が、薄日に照らされる……桜子はそう思いたかった。 あとがき——風水都市としての京都——  今の京都市内のほぼ全域は、およそ七世紀ごろまで広大な低湿帯であったと言われています。少しずつ水が退《ひ》いてきたとはいえ、人が住むのによく適した土地というわけではなかったのです。ところが、この山背国《やましろのくに》と呼ばれていた地が平安京として、新しい首都に選ばれました。  なぜ京都が新しい首都になったのか——その理由はいろいろなものがありました。壬申《じんしん》の乱のあとしばらく続いた天武《てんむ》天皇系にとって代わって天智《てんじ》天皇系の桓武《かんむ》天皇が即位したこと、朝廷と仏教界との関係が深く結びついたために奈良では身動きが取りにくくなったこと、平安京に先立つ長岡京時代に早良親王《さわらしんのう》の死をはじめとする忌まわしい事件が続いたこと、有力な来住者集団である秦氏《はたし》の存在があったこと、などさまざまな理由が複合していたわけですが、一つ忘れてはならないのは、京都が四神相応《ししんそうおう》という風水の観点から理想的な土地であったことです。  四神というのは、東西南北のそれぞれの方位を守護する聖獣神で、青龍《せいりゆう》、白虎《びやつこ》、朱雀《すざく》、玄武《げんぶ》を指します。それぞれ、川、道、池、山をつかさどるとされています。京都は、東に鴨川、西に山陽道、南に巨椋池《おぐらいけ》、北に船岡山《ふなおかやま》が備わっていて、まさに四神相応の地であったわけです。  船岡山というのは、高さは百十二メートルしかなく、それほど大きな山ではありません。京都をよく訪れるかたでも「知らない」という人が少なくありません。北大路《きたおおじ》通りを挟んで、大徳寺とほぼ対面の位置にある低い山です。しかし、平安京の都市づくりにおいて、この船岡山は大きな役割を果たしました。この船岡山から南に向かって朱雀《すじやく》大路が作られ、大極殿も、京都の南玄関と言うべき羅城門も、その線上に配置されたわけです。  風水では龍の背に似た山並みや丘を大切なものと考えますが、大極殿のあったところは、東山や嵐山からの風水上のパワー(龍脈)の集まる場所であったとされています。その大極殿は現在の千本丸太町あたりに置かれていたと推定され、千本丸太町の交差点を北に五十メートルほどいったところにその遺址《いし》碑が建てられています。  このような風水、四神相応といった考えは、日本の庭園造りにも影響を与えています。古典的名著と言われる『作庭記』には、「人の居所の四方に木を植えて四神具足の地をなすべき事」とあり、東に桜、西に紅葉樹、南に常緑樹、北に雪山を造って松を植えることが記されているのです。  すなわち日本庭園の特徴の一つである季節的性格を持った�四季の庭園�のベースには、四神相応が影響しているわけです。  風水都市である京都は、建都以降千年にわたって都としての歴史を刻みます。四神相応や風水のルーツ的な存在である陰陽五行説《いんようごぎようせつ》は、いろんなところで京都に影響を与えます。今、脚光を浴びている安倍晴明《あべのせいめい》も、陰陽師《おんみようじ》という任に就いていました。その安倍晴明を祀《まつ》る晴明神社は、大極殿から比較的近い堀川一条にあり、しかも大極殿から見て鬼門と言われる北東の方角を守るように建っています。  私は、京都に生まれ育ち、今も京都に住んでいます。京都を描くときは、このようなアングルからも光を当ててみたいとかねてから思っていました。  そして風水都市というルーツを踏まえたうえで、さらに今の京都が直面している現状を描いてみたいと思いました。京都の現状は、日本の現状につながるような気がしてならないのです。  京都は、さまざまな問題を抱えています。たとえば、伝統の保持と開発の推進という問題です。  バブルのころ、京都は�応仁の乱以来の打ち壊し�と言われる乱開発に見舞われました。古い町家が次々と取り壊され、マンションやビルが建ちました。バブルの波が去っても、高層化やビル化は進みました。  ごく最近に京都を訪れた東京の友人から、「何なんだよ。町並みは東京とほとんど変わらないじゃないか」と失望の言葉を受けたこともありました。「ただ単に寺社が多いというだけでは、京都は魅力がない」とも言われました。  雑誌『上方芸能』の編集代表で、立命館大学の教授でもある木津川計《きづがわけい》氏は、都市のグレードを決める三つの要素として、文化のストック、景観の文化性、情報の発信を挙げておられます。  かつての京都はこの三要素を文句なく満たし、日本屈指の都市としての格を誇っていたと言えます。歴史的文化財を持ち、古都にふさわしい景観を備え、折々の年中行事を繰り広げ、いろんな大学を有していました。  けれども、景観は年を追うごとに悪くなり、夏の風物詩である大文字《だいもんじ》はどんどん見えにくくなっています。大学もまた京都を出て別の地にキャンパスを構えることが少なくありません。文化の蓄積にしても、ただ有名スポットを観光案内的に紹介するだけでは、その本質はなかなか伝わりません。古くさいのは嫌だと敬遠する若者もいます。  そんな京都が抱える問題にも、光を当ててみたいと私は考えました。  京都の庭師である桜子が登場するこの作品は、風水都市としてのルーツと現状の問題点を、縦糸と横糸にしたものです。  これまでとは一味違う京都ミステリーをめざして、シリーズ化をしていきたいと考えています。  よろしく応援をお願いします。 角川文庫『風水京都・竹の殺人』平成14年5月25日初版発行